久慈浜海岸(日立市久慈町)


日立灯台のある公園の崖下は遠浅の穏やかな久慈浜海岸(日立市久慈町)が広がっています。
 
久慈浜海岸は海水浴場、久慈漁港 日立港、久慈川の河口と続いています。

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万葉集にも「久慈川はさきくありまてしほふねに真かじしじぬき吾はかえりこん」とうたわれています。
 
また水戸藩主、水戸義公もこの浜に遊び「朝な夕なあみひくあまの手もたゆくいとまも波の世を渡る哉」と詠んだといいます。
 
ある日、義公は鰹船にのって沖に向かっていると鉄砲を2,3発撃ち放った者があり、供の者が驚いた様子であったが、義公はその時、これは必ず河原子に隠居している中山風軒(水戸家老)が自分の身を案じての軽挙を諌めるための発砲であろうと早速、船をを戻して人を遣わし、その軽挙を侘びたという浜でもあったのです。
 
現在の久慈浜海水浴場は遠浅で砂原は長く若者に人気があります。

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また久慈川の河口には日立港が開湾され、久慈漁港に隣接し、日立港はその南側に位置しています。
 
昭和32年(1957)6月、釜坂の地に埠頭建設が着手され、2年余にこの難工事は完成しました。
 
昭和42年(1967)重要港湾に昇格し開港の指定をうけ、内外航路が急激に増加し、活況を呈しています。

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清流と景勝を誇る久慈川も流域住民にとっては長い水との戦いがありました。
 
久慈川はひとたび暴風雨がくれば、大洪水で川が溢れ、濁流は堤防を決壊し、耕地、家屋、人命までも奪うその
 
惨状はひどいものがありましたが、昭和14年(1939)には、国は直轄工事として治水工事がはじまり、今では被害が少なくなりました
 
これまで久慈川は水との戦いに苦難の歴史がありました。
 
今は様変わりした久慈川も、子供の頃、改修前の久慈川で夏の夕涼みに家族で舟に乗ったり、海水浴で水府流の泳ぎを見せてくれた亡父の懐かしい思い出があります。

☆ヒサコの一句☆

久慈河口 古(いにしえ)の河 懐かしむ


タグ:久慈浜海岸

延命地蔵尊(日立市大沼町)


6号国道沿いにある大沼自動車学校の近くに延命地蔵尊(日立市大沼町)がありました。

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住宅街の中に墓地があり、その片隅にひっそりとお地蔵様が赤色の布をまとって小さな小屋の中に鎮座していました。
 
延命地蔵尊は宝暦13年(1763)に建てられたものです。
 
像は右手に錫杖、左手に宝珠を持った立像で衣を通肩にまとい蓮華座上に立っています。
 
お顔は穏やかで、非常にに整っており、立像姿は大柄で大きなお顔に赤い帽子がよく似合っています。
 
まわりには千羽鶴や人形、花などがそえられていました。

延命地蔵とは延命利生を誓願とする地蔵をいうそうです。
 
長い間人々を見守ってきた路傍のお地蔵様を、遠い昔からけっして裕福ではない、名もない庶民の人々が拝んでいたのかもしれません。
 
お地蔵様を見るたびに遠い昔の人々の暮らしを思いめぐらして手を合わせてしまいます。
 
時代が変わっても時折、手を合わせ花や千羽ズルに思いを託している人達をお地蔵様はにこやかにみているようです。
 
昔は延命朝日地蔵尊といわれたそうです。

あたりにはピンクや白の芙蓉の花が咲いています。

虫の音がどこからともなく聞こえ小さな秋を感じさせてくれています。

☆ヒサコの一句☆

地蔵さま 雨乞い祈る 猛暑かな
タグ:延命地蔵尊

天満神社(日立市河原子町)


潮霧のけぶるこのあたりは河原子海岸を見下ろすように高台にあり、樹木にすっぽり覆われた天満神社(日立市河原子町)がありました。

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鳥居の入り口には由来碑があり、それによると、学問の神さまとして崇め尊び奉る菅原道真公を祭神としています。
 
創立年紀は不祥ですが慶長13年(約400年前)大久保榎木に鎮座してあったものを、此処に移し、当時は北野天満宮と称し、元禄8年水戸光圀の命により、一村鎮守のため天満宮と改称し、二石二斗二升の除税地となりました。
 
後に天満神社と改称され、終戦後、神社の社格は撤廃され、宗教法人として存続し現在に至りました。
 
境内には秋葉神社、稲荷神社、大杉神社、八幡神社、金刀羅神社、鷺森神社の八社が末社として祀られています。
 
ここ天満神社は1月1日の歳旦祭、2月の節分祭、7月の津神社の海開き、11月の七五三祭などが行われまた学問の神さまの神社として入試祈願も多いとききます。
 
海辺の町らしくワカメ干しをしている人がいて潮の匂いがする天満神社は蒼緑の繁みの中にありました。
 
近くにはぽつんとオニユリのさびた朱色がとても印象的でした。

☆ヒサコの一句☆
 
朱塗りの 天満宮は 霧の中
タグ:天満神社

波切不動尊(日立市河原子町)


河原子海岸の高台に波切不動尊(日立市河原子町)が祀られています。

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弘法大師が開基したと伝えられる龍王山不動尊南光寺に波切不動尊(波限不動尊)が祀られています。
 
本尊の波切不動尊は高野山から勧請したものです。
 
創立は不祥ですが歴史は古く、源義家が奥州征伐の11世紀の後半、前九年、後三年の両役に陸奥の豪族に戦いを挑んだときの往還となった時、祈願されたと伝えられています。

ここから美しい河原子海岸や烏帽子岩の奇岩を望む景勝地で河原子八景にもなっております。
 
波切不動尊から眺める秋の満月の情景を「新地の秋の月」といわれ河原子八景として親しまれています。
 
私も美しい夜の海岸の波の音を聞きながら、ここから静かに秋の月に酔ってみたいものですね。

☆ヒサコの一句☆
 
不動尊 波間に映る 夏の月
タグ:波切不動尊

駒つなぎのイチョウ(日立市大久保町)


鹿島神社の鎮守の森はたくさんの神木があります。

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夏の陽が照りつけても鳥居をくぐればもう木立、静寂の中、小鳥の声だけが聞こえました。氏子の人だろうか、ご婦人が境内の落葉をはき清めていました。
 
鹿島神社の境内の南側に蒼緑の駒つなぎのイチョウ(日立市大久保町)の巨樹が目につきました。
 
この珍しい名前の由来は、平安初期の武将で征夷大将軍となり蝦夷を平定した坂上田村麻呂がこの鹿島神社に戦勝を祈願したとき、このイチョウに駒をつないだと伝えられ、この名が付けられたということです。
 
駒つなぎのイチョウは樹齢推定550年とされ、根株は周囲に根が露出しおりますが太い幹はまだまだ衰えを知らず存在感を見せています。
 
春の芽吹き、夏の蒼緑、秋の黄葉、冬の裸木と四季の変化も楽しみな風格のある樹です。
 
駒つなぎのイチョウは雄株で幹囲は5、5メートル、高さは約19、5メートルあるといわれている巨樹です。
 
2月の節分にお邪魔をしたときは裸木でした。

冬の灰色の空に裸木の寂しげな風景もよかったのですが、今の蒼葉の色彩の美しさと力強さに見とれてしまいました。

☆ヒサコの一句☆

駒つなぎ イチョウの陰で 蝉騒ぐ

上孫伏見稲荷神社(日立市桜川町)


6号国道沿いに上孫伏見稲荷神社(日立市桜川町)があります。

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こじんまりとした神社ながら街の一角にあり、国道沿いにあるため存在感があります。
 
由来記によりますと「上孫伏見稲荷神社は明和年間(1764)、京都伏見胡桃稲荷大社威福院より分霊され多賀郡国分村大字大久保字孫1484に祠をたてて祀り、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛の守護神として尊崇してきました。

天明2年(1782)の大飢饉には町内あげて飢饉退散を祈願し、御利益があったといわれます。
 
以来氏神として代々旧暦2月例祭日としています。
 
昭和32年都市計画整理により日立市大久保町字孫1214番に移転しました。」
 
桜の季節には神社の境内に花吹雪が舞い、肩にかかる花びらも気にせず手を合わせたこともありました。
 
またこの神社は日立ささら(大久保散々楽)(茨城指定無形民俗文化財)があります。
 
大久保ささらは古くから大久保鹿島神社の露払いとして神輿の先導をしてきた風流系の一人立ち三匹獅子舞いです。
 
地元では「上孫ささら」と呼ばれています。
 
大久保鹿島神社は大正15年(1926)以来、出社がなく、ささら奉納も途絶えていましたが、昭和38年に大久保鹿島神社上孫散々楽保存会が結成され、保存継続が図られたといいます。
 
大久保ささらの舞いは比較的静かで素朴なのがとくちょうです。

☆ヒサコの一句☆
 
ささら獅子 稲荷神社の 素朴舞い

オサガメ磯(日立市国分町)


国道245号を日立市会瀬から河原子方面に向かっていくと日立市国分町三丁目あたりに鮎川四丁目のバス停があり、そこを海岸にむかっていくとヒットネスやプールのあるスポーツ施設があります。

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その崖下には太平洋が広がっており、この沖合い100メートルほどのところに昔から河原子の漁師さんたちがオサガメ(日立市国分町)と呼んでる磯があります。
 
このオサガメ(長亀)磯には伝説があります。
 
日立市郷土博物館の所蔵する「河原子村来迎院除地書上(控え)」に次ぎのような「朝日権現」縁起の写しが書かれています。
 
朝日権現、但石の賓殿
 
夫朝日権現ハ嘉吉年中當浦之長亀磯工 女性ニ相現人家へ移来而吾ハ是元威光
 
菩薩也国家ヲ為守ニ今此処岡跡ヲ朝日 権現ト詫シ呈御正体ヲ跡ニ置虚空ニ飛
 
至人里彼御正体則御身体□其以来 彼化女宿所子子孫々朝日御子ト名
 
乗致支配来者也
 
嘉吉元年辛酉八月 朔日
 
室町時代(嘉吉年中)の頃、長亀という磯の上に女性が一人あらわれいうには「我は之れ威光菩薩なり、国家を守らんためこの名に垂跡、朝日権現是なり」と それ以来、化女の宿所は子々孫々の朝日の守子を名のったといわれております。

またオサガメ伝説のほかにも、この磯のあたりにはオサガメといわれる大亀が出没したという言い伝えがあるといわれています。
 
子供の頃、夏になるとこの海岸で毎日のように遊びました。今は遊泳禁止になって海水浴場の賑わいはなく静かです。
 
そんな白波が打ち返す浜辺で亀の足跡を探してしまう私です。

☆ヒサコの一句☆
 
沖合いの オサガメ磯に 白カモメ
タグ:オサガメ磯

普済寺跡(日立市鮎川町)


八幡神社の隣に秦病院の駐車場がありますが、そこに真言宗の普済寺がありました。

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現在の普済寺跡(日立市鮎川町)は僧侶の墓石と地蔵尊と如意輪観音だけが残っています。
 
普済寺は元禄時代(1690年頃)から天保時代(1840年頃)まで真言宗海岳山一心院普済寺です。
 
水戸藩の社寺改革で河原子から移転し、天保の改革で廃寺になったといわれます。
 
天保12年の検地絵図には塔、本堂、庫裏が描かれ、除地23石の大きな寺であったということです。
 
また地蔵尊などは旧国道沿いの元普済寺参道入り口に安置されていましたが、昭和36年8月、元普済寺境内海岳山門東側に移奉されて今日に至りましたが、まわりの大樹の下にあり、幾度の風雪害のため堂宇の荒廃甚だしくなり地蔵尊堂改築のため山門跡地より東々北のこのところに改築建立されたものです。
 
僧侶の墓石は地蔵尊堂の傍の墓所の中にひっそりとありました。
 
地蔵尊と如意輪観音の石像は静かにお堂の中に安置され、地元の人が奉納した千羽ズルがたくさんありました。
 
どこからか蝉の寂しげな声が聞こえてきました。

☆ヒサコの一句☆
 
夕暮れや 普済寺跡に 蝉の声
タグ:普済寺跡

大高山宝塔寺(日立市西成沢町)


6号国道の西成沢の青葉台入り口を山側に入ってすぐに左側に曲がり、坂道を上がると大高山宝塔寺(日立市西成沢町)がありました。

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宝塔寺の由来記によりますと、「今からおよそ700年前、日蓮聖人の直弟子によって開かれ、赤浜にあって妙法寺と称しました。

それから393年後、元禄9年(1696)水戸光圀の命により、この地に移し宝塔寺と改めたといいます幕末のころ廃寺となり、堂宇もなくなりましたが祖師の像を一時民家にかくまったりして里人たちが守ってきました。
 
昭和25年、寺院に列することができましたが本堂もなく、ここに寺院があったことも分からぬものが多かったといいます。
 
昭和43年、明治100年を記念し、念願の庫裡新築を果たし、宝塔寺が再こうされました。」

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宝塔寺には木造釈迦如来、多宝如来竝坐像(市指定彫刻)があります。
 
この像は日蓮宗法華経法の本尊とされる厨子入りの釈迦如来と多宝如来の竝坐像で、その中央の塔に南無妙法蓮華経の7文字がひげ文字で大書きされています。
 
像は小品ですが作りは良く、玉眼かん入で、宝冠、冠そうは青銅製です。

白ごうをもち、衣を通肩にまとい、両手に蓮華合掌をしています。
 
寺伝によりますと、この像は元禄9年、水戸光圀が宝塔寺に寄進し、安置されたものといわれています。
 
高台に上がる道には夏の花、紫陽花の美しい薄紫の花が心を和ませてくれました。

☆ヒサコの一句☆

坂道の 紫陽花はなやぎ 宝塔寺

雷神様(日立市東町)


宮田川河口にある笠置島の近く、海岸の切り立った崖の下に別雷命を祀る別雷皇大神、雷神様(日立市東町)があります。

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あたりには鉄工所や民家もあり、広大な浜の宮広場が一望でき、打ち寄せる太平洋の潮の匂いがします。
 
鳥居をくぐると古い祠が、裏手には洞窟があり、そこにも小さな祠がありました。

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洞窟をのぞいて見ると薄暗くて奥深く、どこまでも長く続いているような不気味な暗さでした。
 
雷神は気象の神様であるとも言われ、天候に左右される漁のため、この海岸一帯の漁師の信仰する神として春秋祭日には非常に賑わったといわれています。
 
雷神様のある海岸から約500mほど沖に虎磯とよばれる小さな磯があって干潮時だけ姿を現すというこの磯で釣りをしていた男がいつの間にか潮が満ちて帰れなくなりましたが、この男が日頃から雷神様を信仰していたので天より現れた神の助けにより帰ることが出来た、という話が伝えられています。
 
今でも雷神様の祭日には、ご神体を舟につんで、この磯を一回りするといいます。
 
雷神様は漁師の守り神として海の天候や漁の安全を願って祀られているのかもしれません。
 
現在は日立バイパスが海の上に作られ、静かな海辺の風景も一変しました。雷神様もさぞかし驚いていることでしょう。

☆ヒサコの一句☆

夏の海 雷神様の 祠あり
タグ:雷神様

坐禅石(日立市宮田町)


坐禅石(日立市宮田町)は日立鉱業日立精錬所から入四間方向に約500メートルほどさかのぼり、宮田川をはさんで左側にあります。
 
あたりは新緑が目に眩しく、勢いのある川の音がさわやかな風にのって心地よく聞こえてきました。

しばらく歩いていくと巨石がみえました。

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この巨石こそ坐禅石と呼ばれ、これにまつわる伝説が伝わっています。
 
天童山大雄院寺が、現在日立鉱業日立精錬所のある旧地名、宮田町字杉室というところにありました。
 
文明2年(1470)、南極寿星禅師が神奈川県足柄市にある大雄山最乗寺にありましたが、現在の日立市田尻村に法道を広める為やってきました。そして田尻町の度志観音の霊験を感じ、ここで100日間の参籠を行ったといわれています。
 
禅師の修業中に夢の知らせで観音菩薩のお告げと白馬の行方にまかせてたどりついたところが、宮田村杉室の地であったといいます。
 
杉室は老杉の森林が鬱蒼として昼なお暗く、野獣が多くいたりして恐ろしいところでした。

禅師は森の中をさまよい歩いていくと川の流れの傍らに巨石があったので、その巨石によじ登り坐禅をしました。この巨石が坐禅石とよばれているものです。
 
この巨石の上で昼夜をいとわず坐禅修業を続けたといわれています。
 
坐禅石の大きさは高さ約5メートル、幅8メートル、少しこんもりとした楕円形の変成岩です。
 
「坐禅石」と石の左側に立て札がありますが、道路より少し奥まった川の傍らにあるのであまり目立ちません。
 
道端には白いシャガの花が清らかに咲いていました。

☆ヒサコの一句☆

清流に 木立のざわめき 坐禅石
 
タグ:坐禅石

千手観音(日立市宮田町)


千手観音(日立市宮田町)
 
日立鉱業日立製錬所の事務所に程近いところに千手観音(日立市宮田町)を祀る小さな洞窟がありました。

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洞窟のある杉室の地は約520年前の文明2年、南極寿星禅師によって開山されたといわれる天童大雄院があったところであります。
 
日立鉱山で明治41年に開通し、私も子供の頃、乗車したことがある(乗車賃は無料でした)専用電車を昭和35年に廃止し、助川荷扱所から大雄院までの鉱石などの運搬をトラックに切り替え、産業道路を作り、電車軌道の地下の洞窟にあった千手観音が現在の道路沿いに姿をあらわしたものです。
 
千手観音のそばには由来記が書いてありました。
 
それによると、この千手観音像は1500年の昔、旅の修業者がこの山の洞窟深く刻んだものを古くより言い伝えられたといいます。
 
当時、これを田中辰吉氏が発見し、長年にわたり守護してきました。道路開発と共に現在地に移転になり、後の人々の知るところになり、千手観音の力にて人々をすくい、家内安全、交通安全、安産の神として、遠くからの人々の参拝が多くあるということです。
 
千手観音といっても千の手をもっているわけでもなく、今はコンクリート堂に金網に守られた千手観音が安置されています。
 
近くには高速道路も出来、入四間に至る道路はひっきりなしに車が往来していました。
 
あたりは新緑が眩しく、爽やかな初夏の風は心地よく、観音様はそのなかにひっそりととけ込んで見守ってくださるようにみえました。

☆ヒサコの一句☆

洞窟の 千手観音 すまし顔
タグ:千手観音

海雲山観音院(日立市東滑川町)


6号国道の滑川浜入り口から海岸の方に向かっていくとすぐに海雲山観音院(日立市東滑川町)があります。

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あたりは旧家が多く、その中ほどに立派な「海雲山観音院」の門柱が目立っていました。

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観音院は享保20年に日立町大字滑川字ブダイにあり天正3(1575)小幡館主、小野崎氏に要請されて天童山大雄院9世吉山元利和尚が開山したと伝えられています。
 
しかし、大正2年火事によって焼失しましたが大正7年再建の際に、ブダイから約一町離れた滑川町の現在の地に遷されました。
 
海雲山観音院は釈迦牟仏をご本尊とする曹洞宗の寺院です。
 
本堂や観音堂に描かれているのは仏画、鐘楼に彫られているのは龍の彫刻です。
 
境内には子育て観音、不動明王、説法地蔵など石仏など、境内はにぎやかでした。

江戸時代に「海雲山の晩鐘」として滑川八景に名をつらねています。

☆ヒサコの一句☆

陽の光 院の甍に ふりそそぎ

イボ神様の阿弥陀堂(日立市東滑川町)


日立警察署をすぎて、常磐線を渡ると昔からの旧家や新興住宅がたくさんできていました。

近くには日立バイパスもみえます。
 
その一角に小幡公民館がありました。そのそばに阿弥陀堂(日立市東滑川町)があります。

通称「イボ神様」といわれ参拝すればイボが治るといわれています。

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お礼には大豆を御供えしてお参りしたといわれます。
 
阿弥陀様はイボ取りの神さまになっているのも、阿弥陀如来様は智恵と慈悲をもつ仏とされ、病気を治してくれる有難い神様としてイボ取りの神様といわれるのかも知れません。

創建は室町中期といわれ、阿弥陀堂内には阿弥陀如来を祀っています。
 
境内には十九夜講の如意輪観音の石仏や庚申さまや八坂神社碑などが並べてありました。

小さな阿弥陀堂は住宅街のなかにひっそりとあってそばの公民館ではご婦人方が勉強をされている様子でした。
 
許可をうけて撮影をさせてもらいました。

遠雷が山の彼方から聞こえてきたようです。

☆ヒサコの一句☆

阿弥陀堂 イボ神様に 遠雷が
タグ:阿弥陀堂

豊川稲荷神社(日立市滑川本町)


豊川稲荷神社(日立市滑川本町)が道路沿いにひっそりとありました。

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滑川の六所平にある豊川稲荷神社はかなり古びて今にも朽ちはてそうです。扉の両側には石造の狐が祀られていましたが、まわりは草におおわれ枯木がそのままになって荒れ果てた様子でした。
 
豊川稲荷の祭神は茶吉尼天(だきにてん)といわれ、インドの古い女神といわれております。
 
この稲荷神社には釈迦牟仏をご本尊とする曹洞院の寺である天童山大雄院寺にまつられていた豊川だき天尊を享保20年(1735)に天童山大雄院28世、淵玄実門和尚のとき滑川字ブダイにあった観音院に移され、その後、寛政年間に現在の六所平に移されたといわれております。
 
インド密教の思想は平安のはじめ最澄や空海に伝えられた天台、真言の密教がやがて山岳密教となり稲荷信仰と複合して稲荷神と茶吉尼天が結びついていったといわれています。
 
昔、六所平のお稲荷様は2月の初午の日にはたいそう賑わったということです。

今ではひっそりと人知れずに時間だけがすぎていくようでした。

☆ヒサコの一句☆

梅雨晴れの 豊川稲荷 草いきれ

飽田の里(日立相田町)


飽田(あきた)の里(日立相田町)の地が常陸国風土記の中に記載されております。

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地名の由来は日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷征伐の途中にこの地で妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)と獲った海の幸を飽食した故事によるものといわれております。
 
古代、日本武尊が妃とともに常陸国の道前に来て宿泊した時、日立武尊は山野に猟に出かけるも獲物を獲ることができませんでした。

妃の弟橘媛は海辺に行きアワビや鯛などの魚貝類をたくさん捕獲できたので尊は妃に負けてしまったということです。
 
その日の夕餉には妃が獲ってきた海の幸がたくさん盛られ、尊は飽きるほどに腹いっぱい食べたということです。
 
この日本武尊の「飽きるほど食べた」がこの場所を後の代になり「飽田村」と言われたいわれています。

この飽田村は江戸時代の頃からよばれ、現在の相田町はこの由来からきた地名とされています。
 
飽田の地は明治末期まで半農の侘しい村であったという。
 
今はわずかに旧家や街道がみえるだけで、急速に団地が建設され、近くには日立バイパスが行き交い、あたりの風景が一変しました。
 
海岸は海食崖が続き、きれいな砂浜があり、波にのって若者が波乗りに興じていました。

☆ヒサコの一句☆
 
松浪や 飽田の里の 夢のあと

十王前横穴(日立市川尻町)


日立電線豊浦工場の近くを流れる十王川のまわりは水田や畑がある牧歌的なところです。
 
畑を耕している人が見えるだけで、桜並木のある細い道路を行くとこんもりした山があり、木々が鬱蒼としている道に入っていくと十王前横穴(日立市川尻町)がありました。

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この横穴は7世紀後半ごろの埋葬施設で、山の斜面の岩を横に掘り込んで、玄室をつくり遺体を安置したそうです。
 
横穴は古墳時代の人々が耕していた水田を見下ろすような山の斜面に群をなしてつくられたそうです(横穴群)。
 
十王前横穴群も水田を見下ろす山の南側につくられています。
 
現在は29基確認され、そのなかには装飾を施したものも3基あるそうです。
 
装飾には三角形や菱形などの線刻や赤や黒の色をつけたのもあるということです。

三角形は鎮魂や魔よけのためといわれています。
 
玄室(部屋)の床面にはこぶしぐらいの河原石を敷き詰めたものもあり、遺体は奥壁に安置されていたといわれます。
 
横穴の入り口は、石でふさがれ、家族のものが死ぬとこのふたを開けて遺体を追葬されたということです。
 
高松塚古墳を思い出しながら、この時代の埋葬の形を考えてしまいました。
 
横穴のある小高い山の中は薄暗く、けもの道のようなところをすすむと不気味な鳥の声が頭上に聞こえ、足元は枯れ葉が幾重にも体積したような湿り気でやわらかく、蟲のうごめきと、木々の揺れ動きさえ、人間を拒絶しているようにみえました。

☆ヒサコの一句☆

森の中 暗いしじまに 横穴が
タグ:十王前横穴

上の代遺跡(日立市田尻町)


県道10号の下田尻バス停から山側に行くと上の代市営住宅があり、その中にある一棟のアパートの前庭に上の代遺跡(日立市田尻町)がありました。

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昭和46年、この地に市営住宅が建設されることになったので、遺跡の発掘調査を行ったとき、縄文時代の竪穴式住居跡がたくさん発見され、大量の土器や石器などが出土しました。
 
土器は縄文前、中、後期の貴重なものが出土しており、石器類では石斧、石錘、石皿などの生活用具や呪術や信仰の対象にもなったと思われる人面や鳥獣の形をした土偶も出土したということです。
 
発掘調査が終わった後、昭和48年4月に縄文時代中期(4500年前)を想像して、遺跡に竪穴住居を復元しました
 
現在は復元された竪穴住居はなく、跡のあたりに小石が整えられ、立て札だけがありました。
 
以前あった住居の形は円筒で、径は約1メートルの大きさ、4本の柱が屋根を支えていたそうです。
 
このあたりは気候も温暖で太平洋にも近く、山の自然にも恵まれたであろう、縄文時代の人々の生活を想像しながら、今は民家がたくさん出来て、すっかりきれいになった道を夏の日照りに汗をかきながら歩きました。
タグ:上の代遺跡

モミジアオイとトロロアオイ


モミジアオイトロロアオイが大輪の花を咲かせています。
 
朝の空気は冷気さえ感じる初秋、早くも野辺には冷気に促されたように彼岸花が咲きはじめました。
 
夏の精気溢れる季節から穏やかで落ち着きのある季節へと移ろう秋の日がやってきました。
 
そんな秋の1日、モミジアオイとトロロアオイが大輪の花を咲かせています。

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☆ヒサコの一句☆

黄蜀葵 真正面で 顔合わせ
 
モミジアオイの真紅の花は過ぎ去った真夏の太陽の艶やかさです。アメリカフヨウと同じ北アメリカ東部の湿地に野生する多年草です。
 
葉の掌状が深く裂け、モミジを大きくしたような形なのでこの名がつけられたそうです。
 
夏の終わりから秋にかけて直径15センチぐらいの紅色の大きな花をつけます。
 
モミジアオイは別名 コウショッキ(紅蜀葵)という名でよく知られています。
 
トロロアオイも直径20センチほどになる大輪の花を毎日咲かせます。
 
中国原産の一年草、古くから日本に渡来して薬用として、また、コウゾやミツマタの和紙の原料に根の汁をまぜて使用したそうです。
 
花は朝開き、夕方閉じる1日花です。

高さ1メートルにもなり、夏から秋にかけて淡黄色で中心部が紫褐色の花が葉のわきに横向きにつきます。
 
別名 オウショッキ(黄蜀葵)とよばれています。
 
モミジアオイとトロロアオイ、真紅の花と黄色の花、同じ仲間の華やかな競演といったところでしょうか。

フヨウ(芙蓉)の花


フヨウ(芙蓉)の花

秋の庭に暫し、咲き乱れるフヨウ(芙蓉)の花はなんとも優雅で美しいですね。

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☆ヒサコの一句☆

薄月夜 影を落として 花芙蓉
 
フヨウの花は朝開き、日中は太陽の下でゆったり過ごし、夕にはしぼんでしまう1日花です。

しかし、花は次々と咲き、にぎやかな花園が広がります。
 
フヨウは日本の暖地や中国に野生はありましたが、ふつうは庭に栽培されるアオイ科の落葉低木です。
 
夏から初秋にかけて淡紅色や白色の大きな五弁花を咲かせます。
 
中国、台湾、沖縄、九州などでは高さが3メートルほどになり梢で花を咲かせますが、本州では1〜2メートルほどで花をつけます。
 
せっかくの美しい花を下の方から見るのではなく目の高さでゆっくりと観賞したいですよね。
 
そのためには冬の間に切り戻しておくと目の高さで見ることができます。
 
冬の暖かいところでは枝が枯れず残って上へ上へと伸びてしまいますので、春から出る芽を地上30センチのところで切り戻しておくといいそうです。
 
また寒いところでは地面から60〜100センチ程残して切り戻し、上は枯れますが春にはまた芽吹いて花を咲かせます。

花が終わると丸い形の果実がたくさんつき、そこから種が飛散します。
 
フヨウの大株が一本あればたくさんの量の種がとれます。
 
秋は台風の季節、ダメージをうけず清楚な姿を長く見せてほしいですね。
タグ:フヨウ 芙蓉
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