入四間道(日立市東河内町)


中里小学校下の新道に入四間道(日立市東河内町)の古い道しるべがありました。

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元は玉簾から滝沢の集落を通って入四間町へ抜ける荒沢道の旧道入口にありました。
 
石碑の裏側に「安政四年(1775年)乙未11月入四間村願主関軍治」とあります。

「入四間道」と彫った文字の一つ一つに白米が一升ずつ入るといいます。
 
大きさは碑の高さが約1・7メートルもあります。
 
安政四年は御岩山中に坂東三十三番札所の石仏が配置された年です。
 
中里小学校の小高い裏山には、古びた祠や鳥居があり、馬頭観音の石碑が草や木に埋もれるようにありました。
 
また東河内町から入四間町にでるには滝沢を通るほかに井戸久保を経由する旧道があります。

「このいどくぼ道」は薩都神社から賀毘礼山(御岩山)へ出る通り道でもあったといわれます。

 
現在の「入四間道」の碑があるところは道がX字形になって信号機もありますが分かりにくいところでした。
 
親切な人に案内されて助かりました。
 
昔、山里にあった「道しるべ」は旅人にとって大切なものであったのではないでしょうか。

☆ヒサコノ一句☆
 
振りかえり 里の細道 道しるべ


タグ:入四間道

鎧が淵(日立市東河内町)


中里小学校(日立市東河内町)の下から里川に沿って玉廉寺の方へ里の道をおよそ200メートルほど行くと崖下を曲がりくねって川が流れています。

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このあたりは昔から「鎧が淵」(日立市東河内町)といわれて、その伝説が語りつがれているといいます。
 
昔、東河内の里川あたりで落武者が逃げるのに邪魔になった刀の鞘を捨てたところといわれております。
 
その落武者は藤原広嗣であったという。それから幾年もたって釣りにきた地元の者が川底に古い鎧が何着か沈んでいるのを見つけ、村の者達が鎧を引き上げたということです。
 
それ以後、この淵を誰言うとなく「鎧が淵」とよんだと伝えられています。
 
藤原広嗣といえば遺唐副使として中国へ渡り、学問を修め、政治に参与しましたが、吉備真備や僧玄妨と対立して左遷され、それを不服として大宰府に挙兵したが敗れてしまいます。
 
藤原広嗣は安房、上総、下総の国司となった藤原宇合の長子で、常陸国風土記を編纂した人ともいわれています。
 
宇合は蝦夷討ちなどもおこなっていたため、藤原広嗣が敗走して鎧を捨てたという鎧が淵の伝説も父の宇合が蝦夷
 
討ちをしたのと一緒になって伝説が生まれたのかもしれません。
 
藤原広嗣が常陸国に落ちのびて里川に鎧を脱ぎ捨てたかは定かではありませんが、里川の青い流れの川底にはなにか怨念のようなものを見るような不思議な気分になりました。

☆ヒサコの一句☆
 
鎧が淵 落武者の陰 里の冬

阿弥陀堂(日立市神田町)


吉田神社の近くに、こんもりとした樹木があり、その中にひっそりと古びた阿弥陀堂(日立市神田町)がありました。
 
神田町は、かって「釈迦堂村」とよばれていたそうです。

昔の釈迦堂村、現在は下神田の墓所わきにある阿弥陀堂は何度か修築され、現在はかなりいたんでおりました。
 
小さな堂の中には50センチほどのくすんだ阿弥陀如来が祀られているといわれます。
 
立像は来迎の姿で右手は施無畏印、左手は施願印にしており、この阿弥陀仏の左右に脇待している30センチほどの二尊は観音と勢至菩薩といわれます。
 
鐘(公民館に保管されている)も残され、鐘は直径20センチほどで「文政十一年(1828)子七月ニ十一日釈迦堂村下組」と刻まれているといいます。
 
阿弥陀堂がいつ頃、建立されたか定かではありませんが、江戸時代に廃寺となった勝蔵院ではないかといわれております。
 
勝蔵院は石神外宿にあった真言宗、泉福寺の門徒寺で、徳川光圀の社寺改革にあい取り潰されましたが、九代藩主水戸斉昭の天保改革「念仏庵、薬師堂は撤去すること、但し墓にある庵室に墓守を置くことは認める」とあり廃寺勝蔵院に阿弥陀如来が祀られていたこと、墓地に残された墓守のことから考えると阿弥陀堂と勝蔵院は関係があるのではないかといわれています。
(日立みなみ風土記著)
 
阿弥陀堂は忘れられたようにひっそりとありました。

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遠い昔は寺であったというこの阿弥陀堂が徳川幕府の政策によって取り潰された無念さを感じさせられました。

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そばに石仏が草むらに埋没するようあって、古い阿弥陀堂を見守っているようにも見えました。

☆ヒサコの一句☆
 
釈迦堂の 隠れ祠や 阿弥陀堂 
タグ:阿弥陀堂

吉田神社(日立市下土木内町)


日立南大田lCから6号国道に入るとすぐに下土木内(しもどぎうち)町があります。

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あたりには水田が広がり、用水路を流れる水の音が聞こえるところでした。
 
水田の中ほどに孤立したような森の中に吉田神社(日立市下土木内町)があります。
 
細いあぜ道をいくと神社の鳥居があり、古びた本殿の屋根には枯れ葉が積もっていました。
 
吉田神社は日立武尊(やまとたけるのみこと)が祭神といわれます。もとは八幡社であったといわれ、司祭していたのは真言宗であったのですが、元禄9年(1696)8月、吉田明神と改称され、司祭者も神官に改められました。
 
これは水戸光圀の社寺改革によるもので、八幡社の信仰が神仏習合の根拠によって厳しい処分が下されたものです。
 
また八幡社が佐竹氏の守護神であったため、領民から佐竹氏の影響を弱めることが狙いであったともいわれています。

近くには日南舎会沢資料館があります。

茅葺の居間と倉庫があり農具や民具が展示されているということです。
 
畦道を歩いていると一羽の白い鷺が上空を舞う姿に見とれてしまいました。

☆ヒサコの一句☆

白鷺は 森の鎮守で 羽やすめ
タグ:吉田神社
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