荒屋遺跡(日立市茂宮町)


熊野神社やカナイ神のある近くに荒屋遺跡(日立市茂宮町)があります。

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このあたりは大昔、山麓まで湾入していた海水が後退し、久慈川流域や茂宮川流域の低地は湿地帯となり、あたりには葦が生い茂り、それを開拓して、現在に至り、人々が住む集落が出来上がったといわれています。
 
何十万年前の地質時代からみれば、荒屋遺跡は1500年〜1700年前といわれ、現在の集落を形成したのは更に新しい時代です。
 
現在は水田や畑が広がり、用水路の水の流れる音が聞こえるばかりでした。
 
水田の中にある荒屋橋に立つと水と緑に恵まれ静かな里に秋はゆったりとすぎていくようでした。

☆ヒサコの一句☆                                       
静かなる 荒屋遺跡は 水の里


タグ:荒屋遺跡

鍛冶屋敷とカナイ神(日立市茂宮町)


熊野神社から南100メートルほどの歩道の畑の中に、通称「鍛冶屋敷」「カナイ神」と呼ばれる一区画があります。(日立市茂宮町)

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鍛冶屋とは鎌、鍬、包丁、鋸などの鉄製道具を手作業によって作っていたといいます。
 
この鍛冶屋さんが祀る神を金屋子神(かなやごかみ)といったといいます。
 
カナイ神とは金屋子神がなまって「カナイ神」と呼ばれたともいわれています。

昭和27年の区画整理時、カナイ神の
 
境界部に水路を掘ったところ、たくさんの屑鉄が発掘されたといいます。
 
現在、この地は昭和27〜28年に茂宮全域の区画整理したとき、村内各所に点在していた観音様、馬力神、石佛、石塔などカナイ地区に一括合祀したということです。

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また熊野神社より40メートルの距離に建っている二つの碑がありました。
 
供養塔と参宮記念碑が並列して建っています。

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もとは茂宮町小字石道林の茂宮公民館のある地に建っていました。
 
昭和27年〜28年に茂宮地区の野佛、馬力神、仏像をカナイ神地に集めて祀ったが、「供養塔」「参宮記念碑」は記念碑として扱ったためカナイ神に入れず現在地に移転したといいます。
 
野佛や馬力神、仏像などが、ムシムシした初夏の頃は草深く、埋もれるようにありましたが、晩秋の今はすっかり
 
草が刈り取られきれいになっていました。
 
大きな椿の木の下に並んでいるすがたはすっかり黄色にそまった秋の田園風景にとけこんでいました。

☆ヒサコの一句☆
 
石仏や 椿のもとで 冬を待つ

熊野神社


熊野神社(日立市茂宮町)は茂宮町字十二所の杉林の中ほどに鎮座しています。

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熊野の鎮守として延宝3年(1676)紀伊国熊野有馬村から遷宮され「十二所明神様」と称され、この地に住む高根家が佐竹氏に仕えた代々の武門で、佐竹氏が秋田村移封の際、高根一族は秋田へ移住しましたが、茂宮村に土着した高根一族がはじめて勧請したものといわれています。
 
また熊野三山、熊野権現ともいわれるのは、和歌山県熊野坐神社、熊野速玉神社、熊野那智神社の三社の総称です。
 
平安時代から朝廷、武家、庶民の間に熊野詣がさかんになりました。
 
中世以後は信仰の厚い各地から勧請されて、熊野明神、熊野神社、熊野権現などとよばれる神社が多くなりました。
 
茂宮神社は、初め高根家が勧請して熊野神社と称され、茂宮の鎮守として氏子より崇められたといわれます。
 
このあたりの旧家は佐竹氏ゆかりの深い家が多いといわれます。
 
鳥居のそばには純白や紅色の山茶花が花を散らし、珍しく冬桜の淡い花びらが枝にはりつくように咲いていました。

☆ヒサコの一句☆
 
山茶花や 白の花散る 鳥居前
タグ:熊野神社

西行法師の歌碑(日立市石名坂)


6号国道にある石名坂橋の下の道を通り、坂本中学方面に坂道を上ると、県道亀作線入口に西行法師の歌碑(日立市石名坂)が建っていました。

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歌碑は民家のすぐそばにあり、大きさは碑高206センチ、幅約90センチ、厚さ約10センチの石碑です。
 
この重要な文化財は土手の上にあって、彫られた字が見えにくいのが残念でした。
 
建立当時の記述によれば「西ノ妻南側の急坂が石名坂の地名を生んだ坂で。古代の名坂浦あり。
 
西行法師のこの歌の口碑として残っている。この歌碑を後世に伝うべく。
 
昭和15年五月、皇紀2600年にあわせて有志の方々が協力して、現在地、坂の上に建立したものである」とのことです
 
碑文
 
世の人のめざめせよとて 千鳥鳴く
 
名坂の里の 近き浜辺に
 
従二位勲三等子爵令泉為義書
    
            
「早朝に、人々に目を覚ましなさいと言うように、石坂の近くの浜辺で千鳥が鳴いている」
 
大昔には、この石名坂の近くまで海水が湾入していて千鳥が住みつき、鳴いていた為に、この情景を歌に詠んだものとおもわれます。
 
西行法師(1118〜1190)は平安末期から鎌倉初期の僧で、俗名は 佐藤義清、 法号は 円位 大宝房と呼ばれていました。

もとは武士でしたが22歳で出家、陸奥、四国、九州まで諸国を旅しました。
 
また西行法師の歌碑は、日立地方には他にもあります。
 
☆ 所在地   日立市多賀町、 建立年月は不祥
 
碑文
 
おふ国分の田おもの蛙名のみして
 
ね覚めせよとて鳴く声ぞうき
 
大きさは碑高172センチ、幅約75センチ、厚さ約14センチ。 緑泥岩 台石あり。
 
 
☆ 所在地   日立市滑川町  建立年月日は昭和46年4月
 
碑文
 
大田尻衣はなきかはたかしま沖ふくかぜにみにはしまぬか
 
秀峰書 
 
大きさは碑高140センチ、幅約103センチ 厚さ約15センチ。 

黒花崗岩


1170年の頃常陸国を通って奥州をめざし、行脚の折に歌を残していかれたのでしょう。
 
およそ千年近くの時をへても色あせない情感のこもった歌に感動してしまいます。

☆ヒサコの一句☆
 
枯れススキ いにしへ人の 歌をよみ
 

田中内大日如来堂(日立市大和田町)


羽黒神社の近く、国道293号の道路沿いに田中内大日如来堂(日立市大和田町)があります。

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大日如来の石像を田中内村穴田に安置しています。
 
その由来は「後花園帝の朝、永享2年(1430)僧崇純大和尚が当村に来たとき、あたかも大日堂および尊像のできあがりたる際を以って開眼法事を託す。

大和尚快諾の上、尊像の前に進み喝(げ)を唱え筆を取りて開眼(かげん)奉れり。
 
時にその開眼筆に綱をつけ皆開眼の縁を結びたり」という。
 
平成10年に安置する御堂が老朽化となり町民より寄付を募り、同11年2月に落慶式を行い、立派な完成を見るにいたりました。
 
これも創始者に対する町民の心が長い時を越えて受け継がれていったのでしょう。
 
縁日は8月8日で前日、7日の夜は宵祭りが行われるそうです。
 
大日如来とは密教的宇宙における最高の理念であるといわれます。
 
お堂の前は車が行き交う道路、裏側は田畑が広がり大きな樹木のわきにひっそりとあって見落としてしまいそうなこじんまりとしたお堂です。

少し先には高速道路の巨大な陸橋が目につきました。

☆ヒサコの一句☆
 
如来堂 お墓参りの 道すがら
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