久慈浜海岸は海水浴場、久慈漁港 日立港、久慈川の河口と続いています。
万葉集にも「久慈川はさきくありまてしほふねに真かじしじぬき吾はかえりこん」とうたわれています。
また水戸藩主、水戸義公もこの浜に遊び「朝な夕なあみひくあまの手もたゆくいとまも波の世を渡る哉」と詠んだといいます。
ある日、義公は鰹船にのって沖に向かっていると鉄砲を2,3発撃ち放った者があり、供の者が驚いた様子であったが、義公はその時、これは必ず河原子に隠居している中山風軒(水戸家老)が自分の身を案じての軽挙を諌めるための発砲であろうと早速、船をを戻して人を遣わし、その軽挙を侘びたという浜でもあったのです。
現在の久慈浜海水浴場は遠浅で砂原は長く若者に人気があります。
また久慈川の河口には日立港が開湾され、久慈漁港に隣接し、日立港はその南側に位置しています。
昭和32年(1957)6月、釜坂の地に埠頭建設が着手され、2年余にこの難工事は完成しました。
昭和42年(1967)重要港湾に昇格し開港の指定をうけ、内外航路が急激に増加し、活況を呈しています。
清流と景勝を誇る久慈川も流域住民にとっては長い水との戦いがありました。
久慈川はひとたび暴風雨がくれば、大洪水で川が溢れ、濁流は堤防を決壊し、耕地、家屋、人命までも奪うその
惨状はひどいものがありましたが、昭和14年(1939)には、国は直轄工事として治水工事がはじまり、今では被害が少なくなりました
これまで久慈川は水との戦いに苦難の歴史がありました。
今は様変わりした久慈川も、子供の頃、改修前の久慈川で夏の夕涼みに家族で舟に乗ったり、海水浴で水府流の泳ぎを見せてくれた亡父の懐かしい思い出があります。
☆ヒサコの一句☆
久慈河口 古(いにしえ)の河 懐かしむ
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