イボ神様の阿弥陀堂(日立市東滑川町)


日立警察署をすぎて、常磐線を渡ると昔からの旧家や新興住宅がたくさんできていました。

近くには日立バイパスもみえます。
 
その一角に小幡公民館がありました。そのそばに阿弥陀堂(日立市東滑川町)があります。

通称「イボ神様」といわれ参拝すればイボが治るといわれています。

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お礼には大豆を御供えしてお参りしたといわれます。
 
阿弥陀様はイボ取りの神さまになっているのも、阿弥陀如来様は智恵と慈悲をもつ仏とされ、病気を治してくれる有難い神様としてイボ取りの神様といわれるのかも知れません。

創建は室町中期といわれ、阿弥陀堂内には阿弥陀如来を祀っています。
 
境内には十九夜講の如意輪観音の石仏や庚申さまや八坂神社碑などが並べてありました。

小さな阿弥陀堂は住宅街のなかにひっそりとあってそばの公民館ではご婦人方が勉強をされている様子でした。
 
許可をうけて撮影をさせてもらいました。

遠雷が山の彼方から聞こえてきたようです。

☆ヒサコの一句☆

阿弥陀堂 イボ神様に 遠雷が


タグ:阿弥陀堂

豊川稲荷神社(日立市滑川本町)


豊川稲荷神社(日立市滑川本町)が道路沿いにひっそりとありました。

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滑川の六所平にある豊川稲荷神社はかなり古びて今にも朽ちはてそうです。扉の両側には石造の狐が祀られていましたが、まわりは草におおわれ枯木がそのままになって荒れ果てた様子でした。
 
豊川稲荷の祭神は茶吉尼天(だきにてん)といわれ、インドの古い女神といわれております。
 
この稲荷神社には釈迦牟仏をご本尊とする曹洞院の寺である天童山大雄院寺にまつられていた豊川だき天尊を享保20年(1735)に天童山大雄院28世、淵玄実門和尚のとき滑川字ブダイにあった観音院に移され、その後、寛政年間に現在の六所平に移されたといわれております。
 
インド密教の思想は平安のはじめ最澄や空海に伝えられた天台、真言の密教がやがて山岳密教となり稲荷信仰と複合して稲荷神と茶吉尼天が結びついていったといわれています。
 
昔、六所平のお稲荷様は2月の初午の日にはたいそう賑わったということです。

今ではひっそりと人知れずに時間だけがすぎていくようでした。

☆ヒサコの一句☆

梅雨晴れの 豊川稲荷 草いきれ

飽田の里(日立相田町)


飽田(あきた)の里(日立相田町)の地が常陸国風土記の中に記載されております。

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地名の由来は日本武尊(やまとたけるのみこと)が蝦夷征伐の途中にこの地で妃の弟橘媛(おとたちばなひめ)と獲った海の幸を飽食した故事によるものといわれております。
 
古代、日本武尊が妃とともに常陸国の道前に来て宿泊した時、日立武尊は山野に猟に出かけるも獲物を獲ることができませんでした。

妃の弟橘媛は海辺に行きアワビや鯛などの魚貝類をたくさん捕獲できたので尊は妃に負けてしまったということです。
 
その日の夕餉には妃が獲ってきた海の幸がたくさん盛られ、尊は飽きるほどに腹いっぱい食べたということです。
 
この日本武尊の「飽きるほど食べた」がこの場所を後の代になり「飽田村」と言われたいわれています。

この飽田村は江戸時代の頃からよばれ、現在の相田町はこの由来からきた地名とされています。
 
飽田の地は明治末期まで半農の侘しい村であったという。
 
今はわずかに旧家や街道がみえるだけで、急速に団地が建設され、近くには日立バイパスが行き交い、あたりの風景が一変しました。
 
海岸は海食崖が続き、きれいな砂浜があり、波にのって若者が波乗りに興じていました。

☆ヒサコの一句☆
 
松浪や 飽田の里の 夢のあと

十王前横穴(日立市川尻町)


日立電線豊浦工場の近くを流れる十王川のまわりは水田や畑がある牧歌的なところです。
 
畑を耕している人が見えるだけで、桜並木のある細い道路を行くとこんもりした山があり、木々が鬱蒼としている道に入っていくと十王前横穴(日立市川尻町)がありました。

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この横穴は7世紀後半ごろの埋葬施設で、山の斜面の岩を横に掘り込んで、玄室をつくり遺体を安置したそうです。
 
横穴は古墳時代の人々が耕していた水田を見下ろすような山の斜面に群をなしてつくられたそうです(横穴群)。
 
十王前横穴群も水田を見下ろす山の南側につくられています。
 
現在は29基確認され、そのなかには装飾を施したものも3基あるそうです。
 
装飾には三角形や菱形などの線刻や赤や黒の色をつけたのもあるということです。

三角形は鎮魂や魔よけのためといわれています。
 
玄室(部屋)の床面にはこぶしぐらいの河原石を敷き詰めたものもあり、遺体は奥壁に安置されていたといわれます。
 
横穴の入り口は、石でふさがれ、家族のものが死ぬとこのふたを開けて遺体を追葬されたということです。
 
高松塚古墳を思い出しながら、この時代の埋葬の形を考えてしまいました。
 
横穴のある小高い山の中は薄暗く、けもの道のようなところをすすむと不気味な鳥の声が頭上に聞こえ、足元は枯れ葉が幾重にも体積したような湿り気でやわらかく、蟲のうごめきと、木々の揺れ動きさえ、人間を拒絶しているようにみえました。

☆ヒサコの一句☆

森の中 暗いしじまに 横穴が
タグ:十王前横穴

上の代遺跡(日立市田尻町)


県道10号の下田尻バス停から山側に行くと上の代市営住宅があり、その中にある一棟のアパートの前庭に上の代遺跡(日立市田尻町)がありました。

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昭和46年、この地に市営住宅が建設されることになったので、遺跡の発掘調査を行ったとき、縄文時代の竪穴式住居跡がたくさん発見され、大量の土器や石器などが出土しました。
 
土器は縄文前、中、後期の貴重なものが出土しており、石器類では石斧、石錘、石皿などの生活用具や呪術や信仰の対象にもなったと思われる人面や鳥獣の形をした土偶も出土したということです。
 
発掘調査が終わった後、昭和48年4月に縄文時代中期(4500年前)を想像して、遺跡に竪穴住居を復元しました
 
現在は復元された竪穴住居はなく、跡のあたりに小石が整えられ、立て札だけがありました。
 
以前あった住居の形は円筒で、径は約1メートルの大きさ、4本の柱が屋根を支えていたそうです。
 
このあたりは気候も温暖で太平洋にも近く、山の自然にも恵まれたであろう、縄文時代の人々の生活を想像しながら、今は民家がたくさん出来て、すっかりきれいになった道を夏の日照りに汗をかきながら歩きました。
タグ:上の代遺跡

白山神社(日立市川尻町)と雉(きじ)伝説


白山神社は豊浦中学のすぐそばにあって、6号国道沿いにあります。

現在は館山神社に合祀されています。

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白山神社は文明年間(1472)に俊意法印によって勧請されたといわれます。
 
この白山神社には「お雉さま」伝承がありました。
 
この伝承の記述があった常陸国風土記の成立が養老年間(717〜724)といわれていますから、この「雉伝承」は約1290年前になります。
 
雉伝承とは「昔、兄と妹がおなじ日に田植えをしていました。

今日、田植えがおくれた者は伊福部の神の禍をこうむることになる、と言っていたところ妹が遅れてしまいました。その時、雷さまがとどろき妹を蹴殺してしまったということです。

兄は大変なげき恨んで仇を討とうとしましたが、この雷神がどこにいるのかも知らずいたところ、その時、一羽の雌雉が飛んできて兄の肩にとまりました。
 
麻糸をとって雉の尾にかけたところ、雉は飛び去って伊福部の岳にあがりました。そしてその麻糸をたどっていくと雷神の寝ている石座につき、兄は太刀をぬいて雷神を切ろうとしたところ、雷神は恐れおののき助けてくれという。
 
「助けてくれたらあなたの命令に従って百歳の後にいたるまで、あなたの子孫の末まで落雷の恐れがないようにしよう。」というので雷神を許して殺さなかったという、兄は雉の恩をいつまでも忘れず、もし違反すれば病気にかかり一生不幸になるだろうといったので、その後、村人は雉を食べなくなったといいます。」
 
雉伝説は日立地方の民話「伊福部と雉子」の中で、二人の兄妹と雉の物語です。
 
白山神社は館山神社の境内にひっそりと合祀されて、大変古く小さな神社であまり目立たないです。

まわりには、石仏や石像、小さな祠が無造作にあり、伝承の神社は寂しそうにみえました。
 
☆ヒサコの一句☆

寂しげに 雉伝説の 祠あり
タグ:白山神社

金色姫伝説(日立市川尻町)


豊浦中学近くの6号国道の傍にあって、海岸に面している崖上に鎮座する蚕養神社(日立市川尻町)にまつわる金色姫伝説はこの地方では有名になっています。

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蚕養神社は日本で一番古い蚕の神社といわれております。
 
蚕養の神の由来とは、昔、常陸国豊浦湾(現在 川尻小貝浜)に繭の形をした丸木舟が流れついたのをこの地に住む神官、権太夫が見つけました。
 
早速、丸木舟をわってみるとその中から、たいそう美しい姫が現れたので家につれてわけを聞いたところ「私はインドの大王の一人娘で金色姫と申しますが、母は早く亡くなって、今の継母様は私を憎んで、毎日ひどくいじめられました。

この様子を見かねた大王は桑の木で丸木舟をつくり、宝石のような赤貝で作った首飾りを私の首にかけて舟に乗せ、慈悲深い人に助けられることを願って海に流しました。」と泣きながら手を合わせました。
 
身振りでそれを知った子供のない権太夫は、それから毎日我が子のようにいたわり育てましたが5年たった頃、姫は急に泣きながら「私の命も今宵限りとなりました。

私の身は前世の宿縁で蚕という虫に生まれ変わり蚕葉という桑の葉に養われて、宝の真ん中をかけるまで四度の衣をぬぎすてますがこれは継母様にいじめられた悩みの衣です。
 
それから父母恋しと泣きながら糸をはいて作り、その繭の中にこの身を入れて葬るのです。
 
よい繭を作るには蚕育て頃と庭起きがその良し悪しの瀬戸際です。
 
この蚕貝作りの首飾りと繭は助けていただいた命の恩の置き土産です。」と養蚕の業を教えて念仏と共に昇天しました。

これから日本に養蚕業が広まったといいます。
 
これが蚕姫(こかいひめ)金色の物語伝説といわれています。

☆ヒサコの一句☆

海風や 金色姫の 蚕悲話
タグ:金色姫伝説
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