小貝浜(日立市川尻町)


初夏の小貝浜の海(日立市川尻町)はキラキラと光っていました。

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白浜の砂は裸足でふみしめるにはまだ冷たく、人の姿はまばらで、ただ波の音だけが聞こえる閑静な海岸でした。

小貝浜に面した崖は絶壁で打ち寄せる波に岩が侵食して変形たり、二つ島などもあって風向明媚な海浜です。

この美しい小貝浜は昔から常陸国風土記にも記述され歴史と伝説に彩られた海浜でありました。
 
小貝浜はきれいな小貝があるところから小貝浜と呼ばれました。この小貝を蚕棚におくと蚕の出来がよいというので、福島や群馬などの養蚕家がこの貝を家宝としたりして、小貝浜を蚕養浜とよんだといわれています。
 
常陸風土記に「藻島駅家の浜に碁子があって、色は珠玉の如く、常陸の国で麗しい碁子があるのはこの浜だけである。
 
昔、日本武尊が船で沖に遊び、島や磯を眺め、種々の海草が繁茂していたので藻島となずけた。」と記してあるという藻島とは今の伊師浜で、碁石を産出したのは蚕養浜のことです。
 
この地を蚕養浜といわれるようになったのは今から大変古く、二千二百年余前、稚産霊大神が今の蚕養神社の近くの海に現れ、われは天下蒼生のために産業の幸福を万代まで得させよといわれたため、里人は大変喜び、早速、社殿を造って日本養蚕の祖神を崇め、その浜を蚕養浜といったといわれています。
 
蚕養神社と小貝浜には深い因縁めいた歴史や伝説があったんですね。

☆ヒサコの一句☆

白砂の 小貝浜は 蚕養浜


タグ:小貝浜

八幡清水跡(日立市旭町)


八幡清水跡(日立市旭町)は常磐線日立駅海岸口より線路沿いに南へ約200メートルほどいった左側にありました。

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そこには「八幡清水跡」の石碑があり、昔は湧き水がこんこんと流れたところといわれています。
 
八幡清水の由来は、平安時代後期、八幡太郎義家の父、頼家が、奥州の安倍氏討伐中に衣川の戦いで大敗、これを助勢すべく義家は大軍を率いて奥州壮途の折、常陸の国助川郷にさしかかった際、7月の暑い盛り、連日の暑さのため重い鎧の下には汗がしたたり、喉の渇きのため兵士たちは草むらに倒れこんでしまう者もあり、飲み水に困窮して水を探していたところ、現在の八幡清水跡あたりに湿地帯を見つけ、やじりで地面を突き刺したところそこから清水が湧き出し、兵士達や馬の喉を潤したといいます。
 
そうして義家の軍勢は壮途につくことができました。

それ以来、この場所を八幡清水と名付けられたといわれます。
 
八幡太郎義家にまつわる伝説は義家が奥州征伐といって11世紀後期、前九年の役、後三年の役に陸奥の安倍、清原の豪族に戦いを挑んだとき、出征の往還となった道筋に伝えられています。
 
線路沿いの八幡清水跡には朝にもかかわらず、年配のご婦人が二人しんみりと手を合わせていました。
 
家並みの中にひっそりとある神社はそこだけ明るく華やいでみえました。

時折、聞こえる電車の轟音にさぞかし義家公もびっくりしているかも知れませんね。

☆ヒサコの一句☆
 
義家の のどを潤す 清水跡
タグ:八幡清水跡

笠置島(日立市東町)


日立駅海岸口の近くの海岸に面したところに馬頭観音の石像がありました。

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その崖を下ると、初夏の風が吹き荒れ、荒波が打ち寄せていました。

しばらく潮風に打たれながら歩いていくと日立市内を流れる宮田川の河口に小さな島が見えてきました。
 
島というより岩といった方がいいような小さな島です。
 
長い間に海岸が侵食されて島となった奇岩の笠置島(日立市東町)です。
 
この島が笠置島と呼ばれるようになったのは、前九年の役で義家の父、頼義が苦戦に陥った時、その助勢のため、八幡太郎義家が奥州への壮途の折、この島で休息され、真夏の海から吹く涼風に寝入ってしまいました。
 
やがて目をさまし、出発しようとしたとき、笠がないことにきずき、義家は今しがた休んだ小島に忘れたことに気付き、家来にとってくるように命じ、その者が島に近づくと土地の漁師が島の上から義家が置き忘れた笠をもって島から降りてきて家来に渡してあげたということです。
 
それ以後、この小島を義家公笠置島と呼ばれるようになりました。今でも笠置島と言い伝えられています。

現在は日立バイパスが海岸の上を通り、昔の風景と一変しましたが宮田川の水の流れは激しく、きれいな水の色にほっとしました。

昔から美しい景勝の会瀬や初崎、さらに奇岩、笠置島を抱く宮田川河口を越えて浜の宮にいたる海岸は夏は海水浴に冬は温暖なところであり、歴史や伝説にいろどられたところです。

☆ヒサコの一句☆

初夏の雲 荒波しぶく 笠置島

種殿神社(日立市田尻町)


江戸時代には陸前浜街道と呼ばれ、現在は県道10号の下田尻バス停の近くの小高い丘の上に種殿(じゅどの)神社(日立市田尻町)があります。

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田尻地区の鎮守として、また片目の神の伝説の神社としても知られています。
 
この片目の神さまは種殿と呼ばれる神社に祀られ、祭神は大巳貴命(おおなむちのみこと)です。
 
種殿神社の神は、昔、畑のあぜ道でころび、ささげに目を突いて片目になり、その後、この神社の氏子はささげを作ってはならないと伝えられています。
 
この片目の神さまは種殿や十殿と呼ばれる神社に祀られているそうです。
 
豆、胡麻で目を突いて片目伝説がある高萩の十殿神社などもあるそうです。
 
片目の神さまの伝説などは、昔から人間や動物が妖怪となって恐れられていたものがやがて神となって伝えられるようになったのだろうか。
 
種殿神社の創設は不詳だそうですが、昔から田尻の鎮守としてかなり古く、歴史のある神社のように感じました。

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本殿の裏にはスダジイの木(市指定保存樹)が天を突くように高くそびえているのが印象的でした。
 
神社のすぐわきを通る県道の喧騒をも離れ、5月の眩しい陽さえも、さえぎるように薄暗く、片目の神さまの伝説にピッタリの神社でした。

☆ヒサコの一句☆

蒼の樹々 片目の神の 古社
タグ:種殿神社

イボ取り神の阿弥陀堂(日立市砂沢町)


日立市の北にある砂沢(いさござわ)町は石尊山の山麓にあってあたりは比較的低い山にかこまれた静かな集落です。
 
今では県道10号線が出来て、交通が便利になりました。

県道が開通するまでは小木津から川尻駅に通じる細い里道があるだけで、大変、交通の不便なところであったといいます。
 
県道沿いにある砂沢公民館の坂道を登ると一面、広々とした田畑が広がり、木々の新緑がまぶしく、山桜がハラハラと散り急いでいました。
 
やがて小高い丘に小さな阿弥陀堂(日立市砂沢町)がありました。

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この阿弥陀様はイボ取りの神さまといいます。
 
ここの氏子達が旧6月14日にあつまって夜待ちをするといいます。
 
イボ神さまに小豆や米をお供えしてお参りし、あたりの小石でイボをこするのだといいます。

今も阿弥陀堂の前には、イボ取り(?)の小石が置いてあり、「かならず元にもどしておいてください」と記してありました。
 
阿弥陀如来様とイボ取り神との関係はわかりませんが、治りにくい病気を治してくれる慈悲深い神さまが救ってくださるのかもしれません。
 
阿弥陀堂のそばにはあざやかなボタンザクラがひっそりとしたお堂を盛り立てるように咲き乱れていました。

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近くには祭神が学問の神さま、菅原道真を祀っている北野神社あります。

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スギとカシの大木があり、薄暗い境内は少しひんやりとしました。
 
そばを常磐高速道路の高い陸橋があり、閑静な村落は少し騒がしくなったようです。

☆ヒサコの一句☆
 
砂沢里 花は散るらん 阿弥陀堂

会瀬の七夕磯伝説


会瀬の海(日立市旭町)には七夕神にまつわる牽牛と織姫の伝説があります。

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昔から会瀬の海には七夕磯とよばれる二つの岩がありました。
 
7月のある夜、天の川が高くかかり、星が今にも降ってきそうなきれいな夜でした。

会瀬(昔は遭鹿と呼ばれた)の浜一帯が真昼のように明るくなり、今まで聞こえてきた波の音がばったりと静かになりました。
 
神のたたりか、不吉の前兆か、と村人達は浜にとびだし、不安そうに空を見上げ、右往左往するばかりであったといいます。
 
まもなく、白夜のように輝く空から虹色の美しい雲が現れ、こちらのほうへ近づいてきました。
 
村人達は声も出ず、呆然と立ちすくんで砂浜に座り込んでしまいました。
 
気がつくと、雲の上に凛々しい若者と、まばゆいばかりの美しい女人が乗っていました。
 
少しはなれた沖合いの夫婦岩の上に舞い降りてきました。

すると、それまで静かだった波が岩にぶつかり、四方に散乱する岩は、白い雲となり、風にひろがるように美しく輝き、岩の上で男女が手をとりあい抱きあいながらむつまじく語りあっていました。
 
その妖しい美しさに村の娘達はため息をつくばかりでした。
 
そしていつのまにか二人の姿は消えさってしまいました。
 
「今夜は七夕の日、天の川の岸から牽牛星と織女星が降りてきて、逢瀬を楽しんでいるに違いない」とわれに返った人たちは興奮さめやらぬ様子で話したということです。
 
それから何百年後、享保年間の時、近くの舟入の突端の釣見岬の岩が嵐で崩れ落ち、岩の間から牛の化石が出てきました。

浦人の二人がこれを見ると牛の角が七本ありました。(牽牛の乗っていた牛は七本の角があった。)
 
村人はこれを聞いて恐れをいだき、これを木箱の中に納めて大切に保管したということです。
 
幾日かたって村人が釣見崎にいってみると、牛の化石が消えてなくなり、そこには牛の形をした洞窟だけが残ったという。

それを「牛の岩屋」とよんでいるといいます。

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四方の国 風静かなる波の上に 心よき世の月を見るかな     
 「七夕磯にて詠む」 正親町大納言兼連
 
七夕のあふせの浦に寄波の寄るとはすれど立かへりつつ 
 中務親王
 
会瀬海岸は子供のころ海水浴にいった懐かしい思い出があり、歴史や伝統の町らしく、海辺を散策すると故郷にかえってきたような落ち着きを感じさせる不思議なところです。

☆ヒサコの一句☆

会瀬浦 七夕磯の 荒しぶき

会瀬の海(日立市会瀬町)


会瀬の海(日立市会瀬町)一帯は歴史と神話にいろどられた地です。

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七夕神にまつわる伝説や常陸国風土記には日本武尊が蝦夷平定の際、この地で皇后大橋姫命にお逢いになったところから遭鹿の浦となずけられたと地名伝承があります。
 
風土記では尊が皇后と共に飽田の村であそび、野では鹿を追い、海では魚介を求めて楽しんだことが記述されているということです。

「飽田」と改められたのは尊と皇后が海の珍味を腹いっぱい飽きずに食うたといわれたところから後の世に「飽田」となずけたといわれます。
 
飽田とは今の日高町あたりといわれていますので、尊は今の十王の海あたりまで、舟に乗って島々を回られたということです。
 
会瀬の浦は眺望の地であったところから古くから詩や歌に詠まれました。
 
行く末のいざ白波の伊ささ川 あふせの浦も人はかけせず    宗祇
 
こぎ出づる船路涼しき初秋に あふせの浦の波の朝風      中務親王
 
また義公や烈公とも関係が深く、義公は会瀬の浦に房州産のあわび、仙台産の海松、松前産の昆布などの養殖をはかり成果を上げたといわれています。

烈公はこの地を常北十景に撰んで、その景勝を伝えたといわれます。
 
江戸時代、会瀬は県北有数の漁村でした。明治以後、伝統的な釣り、網漁業により、かつお、まぐろ、さんまなどの漁獲高は上がったが、施設の近代化、資源の枯渇により漁獲高は減少し沿岸漁業の衰退により低下の一途をたどりました。

今は近代化、合理化をめざして会瀬の漁業も変わり、風景もまた変化したようにおもいます。
 
海水浴場として、会瀬八景(御山の冷風、鵜島の釣磯、坊崎の常零、港中泊船、伊勢崎の松、初崎の白砂、夫婦瀑布、七夕の神磯)の景勝地として、また閑静な海辺に日立会瀬青少年の家ができて、広々とした広場ではゲートボールを興じる御年寄りの元気な声が聞こえました。
 
☆ヒサコの一句☆

遭鹿浦 日本武尊の 雄姿あり
タグ:会瀬の海

沼川弁才天(日立市弁天町)


日立市弁天町にあった市消防署(現在は神峰町に移転)裏に弁才天を祀る小さな社があります。

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沼川弁才天(日立市弁天町)と呼ばれています。
 
弁才天は水神を祀ったものとされ、終戦後、造ったといわれる社だけが鳥居くぐった奥に小さく祀られています。
 
弁才天はインドの神様で俗に弁天様と呼ばれています。
 
この神は人々に智恵、福徳、除災の仏神様として信仰されている女神です。
 
日本では七福神の1つのなっており、また天台や真言の密教で説く弁才天は琵琶を弾く女人像の姿をしているものもあります。
 
弁天様のそばには弁天池があり、市消防署跡には公園になっておりました。

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昔は弁天池辺りは、昼なお暗く、子供の頃は池を囲むたくさんの柳の木が幽霊に見えて良い思い出がありませんでした。
 
今は晩春の陽をあびて緑がさやさやと美しくゆれていました。

☆ヒサコの一句☆

晩春や のどけき池の 弁天様
 

明王山不動尊(日立市神峰町)


日立市の繁華街の中ほどに明王山不動尊(日立市神峰町)があります。

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伊勢甚デパート(現在は解体中)の脇にそっと隠れるようにありました。
 
ご本尊は弘法大師ともいわれ、本堂は250年前に建立され、昭和20年の戦災で焼け残り、昭和60年に大改修しました。
 
明王山不動尊は殿畑不動尊としても親しまれています。

また「明王山不動尊絵馬」は市指定文化財になっております。
 
あたりは児童公園になっており、その中央には風格のあるシイの木があり、旧助川町の旧家である長山家のご神木として大切にされてきた樹であったということです。

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昭和20年7月17日のアメリカ軍の大爆撃や焼夷弾にもめげず、今、堂々として、緑豊かな公園を見守っています。
 
シイの木の下には裸婦などのブロンズ像などがあり、市民の憩いになっております。
 
殿畑不動尊にはピンクの枝垂れサクラが風に揺れ目を楽しませてくれます。
 
また公園の大樹を見るにつけ、戦災によって焼け野原になった日立が復興し、現在の姿を思うとき、歴史の重みを感じてしまいました。
 
☆ヒサコの一句☆

椎の木の お不動様に 絵馬祈願

賀毘礼神社(日立市入四間)


賀毘礼山は常陸風土記にも「東の大きな山を賀毘礼の高峰という。すなわち天つ神がいます」と記されています。
 
この一帯は御岩山と呼ばれ、山頂には賀毘礼神社(日立市入四間)が鎮座しています。

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ここは太古から霊山であり、歴代の常陸国領主が参詣するところとされ、佐竹氏はこの霊山に深く帰依していました。
 
水戸藩の初代藩主頼房も敬神の念厚かったといわれ、またこの場所は修験道の聖地として大いに栄え、大日堂、常念仏堂、百観音堂などが建立されました。
 
祭祀は神仏混交で境内には二一の寺社があり、門前町である入四間を御宿と称し霊地としてにぎわいました。
 
山頂にある賀毘礼神社は「立速日男命」を祭神としています。

徳川光圀は賀毘礼神社の近くにある「御多満里」で「大日本史」の編纂をしたといわれています。
 
神社の階段の両側には光圀と斉昭の歌碑があります。
 
「国の中にはびこる草刈たちて君が千代田に返し奉らん」  光圀
 
「光圀の残せし関を我問はば朝廷を守るしるしなりけむ」  斉昭
 
また鳥居の前には武田耕雲斉などの幕末勤皇の志士達の忠魂碑があります。
 
明治時代になると神仏分離が行われ、観音堂、仁王門などが取り払われ賀毘礼神社は衰退してしまいました。
 
賀毘礼神社奥宮にある頂上は旭ケ峰とよばれ、ここからの眺望は素晴らしく晴れた日には那須、日光連山を見ることができます。

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賀毘礼山中には姥神の石像や古い墓碑など伝説にとんだ場所がたくさんあります。
 
御岩神社から表参道を登っていくと急な細い山道があり、辺りは大樹におおわれ暗く、時折、鳥の奇声だけが聞こえ冷たい空気があたりを支配し霊気を感じました。

シャクナゲの淡いピンクの花が咲いていてホッと安らぎをおぼえ少し足どりも軽くなりました。

☆ヒサコの一句☆

霊山の 峰に漂う 古社
タグ:賀毘礼神社
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