本山の一本杉(日立市宮田町)


国道6号から大雄院をぬけて入四間に行く曲がりくねった上り坂をゆくと山側は冬の間の枯木が少し春の山の色に変化しているように見えました。左側は道路に沿って宮田川が流れ、山間の通行が左右に分かれた真ん中の地点に本山の一本杉(日立市宮田町)(市指定天然記念物)がありました。

P3301118.JPG

P3301113.JPG
 
昔はこの地に杉の大樹が林立していましたが、これが赤沢銅山時代に次々と枯れて残ったのはたった三本の杉といわれています。明治35年9月の大暴風雨で二本が倒れ、今の一本だけ残ったといわれています。
 
当時の一本杉は根元がそばを流れる宮田川にさらされましたが、大正から昭和にかけての道路改修に土盛りされ通りの傍にあった現在の杉が昭和42年、当時、産業道路の工事で道路の真ん中に置かれるようになりました。
 
県の方針で伐採される憂き目になりましたが、日立鉱山の歴史を見守ってきました一本杉を守るため日本鉱山が交渉を重ね、現在の状態で保存されたものだそうです。
 
一本杉の大きさは根回り周囲4、35メートル、樹高34メートル、樹齢推定450年といわれています。
 
このときの道路改修で地盤が2メートル近くかさ上げされたので、もとの姿からは短縮されています。
 
一本杉は本山トンネルの手前にあり、交通安全の守り木にもなっています。
 
近くには「もとやま自然の村」や「あかさわ山荘」もあり、静かな山間には時折、車が行き来しているだけです。
 
近くには真っ赤なアオキの実がとても新鮮に見えました。
 
また白梅や紅梅がゆく春を惜しんで咲き乱れ、ツバキもそっと葉隠れに咲いていました。

☆ヒサコの一句☆
 
別れ道 一本杉の 山の春



泉川道標(日立市大みか町)


大甕神社の前の道路に「泉川道標」(日立市大みか町)(市指定建造物)がありました。

P3191046.JPG

P3191045.JPG
 
泉川道標は岩城相馬街道といわれた旧国道と水木泉神社にいたる分かれ道に建てられています。
 
昔は本道から小さな街道に入るところには道標があって旅人の道しるべとなったといわれています。
 
道標の大きさは高さ92,5センチで材質は町屋石です。
 
道標碑には正面に「従是泉川道」右側に「此れミカノ原水木へ十二町」左側に「常陸二八社之内天速玉姫神社」とあります。
 
当時は神社や寺の参道巡礼の風習が盛んで天速玉姫神社(泉神社)にはたくさんの参拝者があったおもわれます。
 
ちなみに泉川道標の設立者は「奥州岩瀬郡須賀川 泉屋忠兵衛」とあり「明和八年辛卯四月吉日」と碑の側面に記されています。
 
大甕神社を参拝して鬱蒼とした古木のささやく声を聞きながら散策すると春の風が気持ちよく、泉川道標の前に出ると旅人の足音が聞こえるようです。

☆ヒサコの一句☆
 
旅人の 道標ありて 山桜
タグ:泉川道標

大甕神社(日立市大みか町)


大甕(おおみか)神社(日立市大みか町)は常磐線大甕駅より西に約500メートルの所にあります。

P3191032.JPG

P3191039.JPG

P3191041.JPG
 
東に通じる市道は旧岩城相馬街道(陸前浜街道ともいう)があり古きよき昔の街道の面影を残しています。
 
この地は古くは奥州に通ずる街道の要所をしめ、海岸通りにも通じる古代からの交通の起点でもあったところといわれています。
 
現在の拝殿は昭和八年に建立され、その裏手には宿魂石と称される巨石があり、その上に本殿が建立されています。
 
この本殿は石名坂村にあって倭文神宮と称されていましたが元禄2年の時、倭文神の由緒が水戸藩主徳川光圀の認める
 
ところとなり、神宮のあったところから約200メートル下った武葉槌命にゆかりのある現在の宿魂石上に選宮されたものといわれています。
 
この本殿は老朽したため昭和32年に建てかえられました。古くは久慈村、南高野村、石名坂村の鎮守とされ、遷宮前の場所は石名坂村古宮と呼ばれ、倭文神宮の宮跡として石造りの祠が松林の中に残っています。
 
大甕神社一帯は風神山から地続きの地で近くには日立研究所の建物があります。
 
ここ大甕神社は多賀山地にいだかれ、温暖に恵まれ古き樹木が鬱蒼としています。
 
大甕神社にはアカマツ林、スタジイの常緑広葉樹林があり、スタジイの大きいのは樹齢推定300〜400年の大樹が繁茂し、これらが市の天然記念物に指定されています。
 
境内の植物にはアカガシ、サカキ、ヤマウルシ、ヤツデ、ヤブコウジ、ヤブラン、など200種もあるといわれています。

付近にはウコンザクラ、ソメイヨシノの古木、日立研究所の沿道には美しいサクラ並木が楽しみです。

☆ヒサコの一句☆
 
宿魂石 大樹の精が ふりかかり
タグ:大甕神社

甕の原(みかのはら)古戦場


甕の原(みかのはら)とは日立市の泉が森付近から久慈町、留町方面までの真弓山麓一帯の平原をいいます。

P3171028.JPG
 
このあたりは佐竹時代の古戦場として有名なところです。
 
南北朝時代にあった北畠顕家と佐竹貞義との戦いは最も有名な合戦でした。
 
鎌倉幕府成立時代、この地方は既に佐竹氏によって支配されていました。
 
佐竹氏は初めは源頼朝に味方しませんでしたが、平家が滅びてからは源頼朝に従いました。
 
しかし、鎌倉幕府の力が衰えると足利高氏が武家政治の再組織を成し遂げようとしたとき、佐竹氏はこれに味方しました。

即ち建武2年、陸奥守鎮守府が後醍醐天皇の命を受け、鎌倉の足利勢を討とうと奥州の大軍を引きいて進軍し、翌延元元年、正月、多賀郡に進軍しました。
 
しかし、当時この地方を治めていた佐竹貞義は、予め足利高氏から領地を守るようにとの命があったので、その子義敦に命じて北畠顕家の軍勢をくい止めようとし、甕の原で激戦になりました。
 
この激戦で佐竹勢は顕家の軍勢が長途の疲れの中に突き入り、益々勢を得、顕家軍の先鋒相馬胤平、岩城忠隆らは死に追いやられました。 

このとき、那珂西の城主、那珂彦五郎通辰が二千の兵を率いて顕家の軍に馳せ参じ、築前山上からどっと佐竹勢の中に斬りこみ、その勢いは激烈をきわめ、さすがの佐竹軍も石名坂まで撃退されました。
 
貞義は味方の軍勢を奮い立たせ反撃をしましたが及ばず、遂にその大半を失って敗走したといいます。
 
これが世にいう南北朝時代の甕の原合戦といわれるものです。
 
現在の石名坂から眺めた一帯は昔から田園風景が広がっていました。
 
今は国道6号線、常磐自動車道が東西にはしり、交通機関が頻繁に行き来しています。

あたりには団地や近代的な建物ができ人々の暮らしも様変わりしてきました。
 
春霞のぼんやりした風景が少し暖かさを感じさせ、サクラの蕾がほころぶやさしい季節になりました。

☆ヒサコの一句☆
 
春彼岸 霞たなびく 甕の原

泉が森(日立市水木町)


泉が森
 
春の陽光さす水木の浜はキラキラと輝いていました。
 
水木の浜の近くには松や杉などの繁みが鬱蒼としている森があります。
 
血に彩られた南朝忠臣の遺蹟であると共に森の中には泉神社(日立市水木町)があります。

P3110976.JPG

P3110980.JPG

この神社の祭神は天速玉姫命で延喜式内社になっております。
 
その境内に清水が絶えず湧き出している「泉が森」(県指定史跡)とよばれている所です。

P3110985.JPG
 
泉が森は昔から人々の憩いの場所として有名でした。和銅6年(713)朝廷により編纂された「常陸国風土記」
 
に記されているといいます。
 
「村の中に浄泉あり、俗に大井と請う。夏冷かにして冬温なり。湧き流れて川と成る。夏の暑い時、遠邇の郷里より
 
酒肴をもたらし、男女会集いて遊び楽しめり」とありました。
 
藤田東湖も泉が森で納涼詩を詠じています。

P3141013.JPG
 
「れつれつたる深樹の下 炎天六日颯として秋の如し
 
あにただに一時の熱を駆遂するのみならんや 洗い尽くす乾呻万古の愁い」

嘉永六年六月(1853)ペリー来航
 
藤田東湖(四十八歳)はその頃、病気治養のため福島県湯岐温泉で一か月逗留の後、六月十九日、泉が森を訪ね

納涼詩を詠みました。 
 
この詩は碑に刻んで泉が森池畔に建立されています。

P3110983.JPG
 
また泉の中に弁財天を祀る祠がたっています。

弁財天に向かって手を合わせる人の真剣な顔がありました。
 
鬱蒼とした森にわずかに差し込むその先に泉から湧き出る清き水にとても神秘的なものに感じました。
 
静かな泉にただずむと心が洗われるようです。

☆ヒサコの一句☆
 
早春の 蒼き繁みに 泉あり

南高野貝塚(日立市南高野町)


すっかり春めいてまいりました。

今年は日本列島が真冬日になったり、初夏のような気温になったり落ち着かない日が続いています。
 
太平洋を見下ろす南高野貝塚(日立市南高野町)(県指定史跡)は緑の多い静かな史跡公園になっていました。

P3110974.JPG

P3110968.JPG

P3110973.JPG
 
はるか大昔、海岸や湖のほとりに住んでいた人々は、そこでとれる貝や魚を捕獲して食べ、食べた後は貝殻などを住居などのそばに捨てたのでしょう。
 
それが幾百年と続くと大量の貝殻が山積みとなってしまいます。これが貝塚です。
 
貝殻だけでなく獣や鳥などの骨などもあり、大昔の人々の生活が偲ばれます。
 
南高野貝塚は縄文時代中期から後期にかけて形成された貝塚といわれています。

大昔、台地の低地は太平洋が湾入していたといわれ、この貝塚からヤマトシジミ、マシジミ、カキ、アワビ、ハマグリなど、魚類ではカツオ、クロダイ、スズキ、サメなど、獣類ではタヌキ、キツネ、シカ、イノシシなど発見されたということです。
 
またこの南高野貝塚は茨城県で一番北に属する貝塚といわれています。
 
そればかりではなくこの周辺から縄文土器や石器類がたくさん出土されています。
 
このあたりに住んでいた縄文時代からの人々の生活ぶりを知る上で大変、貴重なところですね。
 
この貝塚は数年前まで土器など出土していたといいます。
 
現在は史跡公園としてみんなの憩いの場所になっております。

☆ヒサコの一句☆ 

縄文の 貝塚見れば 草芽ぶき
タグ:南高野貝塚

助川城址(日立市助川町)


助川城址(日立市助川町)(県指定史跡)は水戸藩主 徳川斉昭(烈公)が幕末外交難に備えて水戸藩の海防総司令山野辺兵庫頭義観の居城として築いたものです。

P1190665.JPG

P3121001.JPG
 
助川小学校の校門付近にあった大手門から三の丸、二の丸、本丸に行くにしたがって地形が高くなっており、遠見やぐらや養正館(子弟の教育)、鉄砲教練場がつくられました。初崎海岸には砲台が築かれました。
 
城を築いたのは天保7年(1836)、山野辺義観、義芸、義正と3代の城主が28年間、海防総司令官として居城し大きな歴史的足跡を残して元治元年9月9日、天狗、諸生の乱で落城しました。
 
明治維新の元勲、田中光顕が城址を訪れ「そそり立ちし城はあらねどきつきつる人の功は永久に残りて」と読んで往時を追想されたということです。
 
城址には徳富蘇峰の書いた「助川城址」碑や、初代城址 義観が自ら彫った鳩石などがあります。

P3121008.JPG
 
幕末に水戸藩の内部争いに巻き込まれた天狗党の悲劇を思うとき、私は城址に立ってとても複雑な思いになりました。
 
時代が大きく変化していった幕末の水戸藩の内乱は歴史の中に咲いたあだ花だったのでしょうか。

今は静かにただずむ助川城址にたつと日立市街が見渡せ、太平洋が一望される風光明媚な公園になりました。

四季それぞれにウメ、アシビ、サクラ、ツツジ、カエデなど高台には一面美しい景色で彩られ家族ずれなどが訪れ賑わいをみせています。

☆ヒサコの一句☆

馬酔木咲き 天狗党悲話 城址丘
タグ:助川城址

度志観音(日立市田尻町)


日立市立田尻小学校の裏手にすっかり木々の中にうもれた度志観音(日立市田尻町)(県指定史跡)があります。

P3060954.JPG

度志観音は小高い丘の中腹に露出する岩壁に彫られた正観音を本尊とした度志観音堂がありましたが今は廃寺になっております。
 
常陸国風土記によりますと「国宰、川原宿禰黒磨時、大海之石壁、彫造観世音菩薩像。今存矣。因号仏浜」と記されており、この観音像とは度志観音であるといわれております。
 
この仏ヶ浜の場所にはいろいろな説がありますが、風土記によると田珂の国の最初の村々を道前の里といい、入り口の意である。

日立市宮田町から小木津町付近であろう。

道前の里に「飽田」の地があります。
 
風土記では地名の由来を倭武天皇が蝦夷征伐の途中、この地で海の幸を飽食した故事によるといいます。
 
飽田村(現、相田町〜大田尻付近)であったという。仏浜とは大田尻の浜辺であるという説もあります。
 
また天童山大雄院を開基した南極寿星禅師が田尻村の度志観音菩薩の霊験を感じ、この観音堂に百日間の参籠されたといわれています。

P3060957.JPG

P3060959.JPG

岩壁に像が彫られて年月がたち現在では認めがたくなってしまったといいます。
 
静かな樹の繁みに守られて度志観音はありました。今の季節、ツバキの花びらが地面をおおい、薄暗い空間に不思議な霊気が漂っていました。
 
☆ヒサコの一句☆

廃れ寺 散れ椿にも 霊気あり
タグ:度志観音

蚕養神社(日立市川尻町)


早春とはいえ小貝ヶ浜からの冷たい風がふき、閑静な海岸は白いさざ波が寄せてはかえしているばかりでした。
 
海浜の崖の上に古びた蚕養神社(日立市川尻町)があります。

P3030936.JPG

P3030943.JPG
 
蚕養神社の創立は永正10年(1513)(水戸藩神社録による)とされています。
 
昔は於岐津社とよばれていましたが明治34年に蚕養神社と改められたといわれています。
 
大正8年になって稚産霊命、事代主命の二柱を合ひしたということです。(茨城県神社誌)
 
神社の縁起では孝霊天皇7代の御代、この地に稚産霊命を祀って蚕養の神にしたとあり、これがわが国、最初の蚕養神社といわれております。
 
境内には明治時代の歌人、本居豊頴の歌碑があります。
 
歌碑が建立されたのは大正初期といわれ、歌は「里人がかふこの糸のひとすじにいのらば神もうけひかしやは」と詠まれたものです。

P3030945.JPG
 
拝殿内には藤原憲清、西行法師の献詠歌があります。
 
小女子かこかいの浜による玉は神のみけしのよそいとぞおもふ 
                      藤原 憲清朝臣
 
見るめさへかがやくばかり真玉なすこの玉石はあやにうるわし 
                        西行 法師
 
石段をあがると古びた本殿のそばにひっそりと白い水仙の花が咲いて清しい気持ちになりました。
 
神社の敷地は広く、岩礁の多い海岸上の松林にぬって約500メートルほどの散歩道があり小貝ヶ浜が見られ
 
川尻灯台や波切不動尊などがあり、潮風にあたりながら散策するのもいいですね。

☆ヒサコの一句☆

古色なる 蚕養神社に 水仙花
タグ:蚕養神社

覚念寺境内、木造 聖徳太子坐像(日立市金沢町)


覚念寺境内(日立市金沢町)の広い庭はきれいに手入れがいきとどいていました。

P2230899.JPG

P2230898.JPG
 
特に白梅は静かな境内に少し華やいで美しくみえました。
 
覚念寺の入り口には県重要指定の彫刻「木造聖徳太子坐像」があります。

P2230902.JPG
 
製作年代は室町時代と推定されており、昔、塩浜(河原子)那智の里にあったものですが明治39年(1916)に現在の場所に移されたものです。
 
この聖徳太子坐像は寄木造りで極彩色漆箔、玉眼が嵌入してあります。

右手は掌を上向けて膝におき、左手にしゅびを執る勝鬘経講讃像といわれるものです。

一般に聖徳太子像は太子16歳の孝養像が多く造られておりますが、この像のように聖徳太子の壮年期、推古天皇の皇太子時代の摂政時代の講讃太子像は、地方の遺品としては珍しく、貴重なものとされています。
 
聖徳太子坐像は小品ですが作りもよくできており、江戸時代の作と推定される厨子に納められています。
 
残念ながら写真でしか拝見できませんが、お顔は穏やかなやさしい感じにみえました。
 
覚念寺のあるあたりは伊勢神社があり、周りの屋敷は古く静かなただずまいをみせていました。

☆ヒサコの一句☆
 
梅の寺 やさしいお顔の 太子像

毘沙門の古い樹木(日立市金沢町)


太平洋を望む高台にある金沢町は山脈から吹く風をさえぎり、太平洋からの陽の恵みをうけて暖地性の樹木がたくさんみられます。
 
金沢の毘沙門(日立市金沢町)といえば伊勢神社の東側にあたる地域で古い路地をはいると古い民家がおおく古風な庭や古木がある静かな町です。
 
そこにシラカシ(白樫)の巨木(樹齢200年ぐらい)(市指定保存樹)が堂々と天をついてそびえていました。

P2230910.JPG
 
近くには金沢川が流れ毘沙門橋を通って上流にのぼるとスギ、マツ、シイなどが鬱蒼としています。

P2230913.JPG
 
近くにある覚念寺の本堂の東側にそびえるイチョウ(樹齢200年ぐらい)(市指定保存樹)も古く、あたりの庭木には白梅が見事に美しく咲いていました。 

P2230895.JPG

立派なイチョウのほかニッケイ、ナンテン、ヒバなど寺の境内は日差しがまぶしくあたるきれいな庭でした。
 
覚念寺の反対側にニッケイの木があります。

P2230921.JPG

このあたりは樹木が多くニッケイの木もたくさんありますが古い民家の屋敷の中ほどにみえるニッケイ(樹齢200年ぐらい)(市指定保存樹)は見事なものでした。
 
まわりにはこれもあざやかなツバキの巨木が高くそびえ、暗緑色の葉の中に紅いツバキの花が美しく咲いていました。
 
自然豊かな毘沙門あたりは落ち着いた静かな町です。

☆ヒサコの一句☆
 
毘沙門の 古木の里に 紅椿

伊勢神社(日立市金沢町)


金沢の毘沙門あたりは古い屋敷がのこる静かなただ住まいです。
 
金沢川にかかる毘沙門橋をわたると十字路になって左側200メートル程に覚念寺、右側は村社伊勢神社(日立市金沢町)があります。

P2230916.JPG

P2230917.JPG

P2230919.JPG
 
伊勢神社に登る参道を進むと両側に伊勢参宮記念碑や両裂神社、足尾山、伏見稲荷などの碑があります。
 
長く急な階段を登りきったところに明治42年に建てた本殿がありました。

本殿の右側には毘沙門堂があります。
 
伊勢神社に伝わる伝説が「伊勢神社由来記」にありました。
 
それによりますと金沢村の百姓、岡源衛門なる者、1186年の後鳥羽天皇の御代、村内の飯盛山に毎夜、光りを発するものが現れ、その光りをたしかめようと飯盛山にこもりました。

夜半を過ぎた頃、緋の袴をつけた美しい官女が忽然と現れ「汝、何者なるぞ、この山の光りを見届けたくこもりしなるか、この光りは黄金の光りを発しているものなり、汝、この由を官に告げよ、吾こそは天照大神なるぞ」と宣わせ給うたという。
 
ふと見上げると先ほどの姿はなく消えてしまったという。
 
それから鎌倉に馳せ参じこの旨を伝えたところ、鎌倉殿から金堀職人をつかわし掘ってみると果せるかな若干の黄金を発見したということです。
 
源衛門はほうびにより富の一字を賜り、富岡源衛門と称したといわれます。

ここを「天照皇太神宮」と称したといいます。

この場所がどこにあったのか、近くに小さな祠があるというのですがはっきりとはわからないといわれています。
 
その後、元禄11年(1698)当時の藩主、水戸光圀の命により現在のところに移されたということです。
 
以後明治6年、太政官布告により「皇太神宮」の名は伊勢のみとしたため、当神社は伊勢にちなみ伊勢神社と称されま
した。
 
このように「伊勢神社」にまつわる飯盛山の伝承はとても興味深いものでした。
 
神社の境内は広く、子供やお年寄りが参拝している姿はひととき和らぎをかんじました。

☆ヒサコの一句☆
 
雛祭り 伝承の社 参拝す
タグ:伊勢神社

河原子海岸の烏帽子岩(日立市河原子町)


河原子海岸(日立市河原子町)は古くから大変有名です。

P2220883.JPG

夏には海水浴として賑わい、町が活気づいたものでした。
 
今はテトラポットが波をさえぎり、美しい砂浜も狭くなり、様変わりしてきました。
 
河原子海岸は濃度が他と異なり潮湯に特効があることで知られてもいます。
 
この海岸は風景を代表するものに「河原子八景」があります。
 
「津の宮の帰帆」 河原子町 鳥帽子岩
 
「孫沢の夜の雨」 河原子町 要害城祉跡
 
「梶沢の晴嵐」  河原子町 梶沢山
 
「日向の夕照」  河原子町 権現山
 
「田名保の落雁」 河原子町 田名保
 
「東福寺の暮雪」 河原子町 東福寺
 
「新地の秋の月」 河原子町 波切不動尊
 
「那知の晩鐘」  河原子町 河原子中学西北方太子堂
 
河原子八景の風雅な名の名所に一度訪ねてみたいですね。

河原子の鳥帽子岩は海中に突きだした岩山で岩頭には松や緑の草樹に包まれています。

☆ヒサコの一句☆

烏帽子岩 白砂光る 春の海

P2250926.JPG

岩腹には津明神が祀られて桟橋を以って岩をめぐらしています。
 
岩に立てば海から吹く風が心地よく、遠くでは漁船が北方向に航行していました。
 
藤田東湖も河原子で湯湯治して、その時、鳥帽子岩に登り詩を詠じています。
 
 眼界東窮亜墨洲 千尋絶壁是我楼
 
 世間富貴王公楽 不換先生1日遊

P2250931.JPG
 
この詩は碑に刻んで鳥帽子岩の中腹に建てられています。
 
河原子海岸は八景にもあるように四季を通じて風景美を楽しめるところです。
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。