東福寺の銀杏(日立市河原子町)


雪雲が垂れ込め河原子海岸は人影もまばらでした。
 
河原子海岸から程近い東福寺(日立市河原子町)がある一帯は昔、田名保といわれました。
 
河原子八景に「田名保の落雁」があります。
 
田名保あたりで秋風ふけば、雁のたよりに気がとめて、冴えた月夜の空をみあげていたのでしょうか。

また河原子八景に「東福寺の暮雪」もあります。

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寺に暮雪が降りしきる様子や残雪が寺の瓦に白く積もる光景が美しかったのかもしれません。

東福寺の一角に樹齢約320年のイチョウ(市指定樹)の巨樹があります。

☆ヒサコの一句☆

静かなる 暮雪の寺に 老銀杏

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明治末に河原子小学校が新設されるまで寺の本堂を「河海舎」と称して校舎がわりだったそうです。
 
河原子の歴史をみてきたイチョウも今は老木になって少し寂しく見えました。



諏訪の水穴(日立市諏訪町)


諏訪梅林の梅がほころび、家族ずれの姿も見えました。

近くを流れる鮎川渓流のせせらぎの音も聞こえます。
 
梅林からさらに山にそって進むと、そりたった崖の麓に石灰岩の洞窟、諏訪の水穴(日立市諏訪町)があります。
 
この水穴(神仙洞)は雨水や地下水が石灰岩を溶蝕してできた鍾乳洞です。

☆ヒサコの一句☆

春きたり 山ふところの 神仙洞

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穴の中からは清水が湧き出し鮎川に流れています。

この水穴には伝説が伝えられております。
 
建長年間(1249〜1255)に信州(長野県)の諏訪神社の神官の藤原高利(万年太夫)が夢の知らせにより信州諏訪神社よりこの地、諏訪神社の分霊を勧請しました。
 
その後、万年太夫は近くにある水穴で村人が不明になったと聞きこれを確かめるため夫婦でこの水穴に入り奥深く進入したまま戻らなかったといわれております。
 
諏訪神社には万年太夫が水穴に入る際、自ら夫婦坐像を彫刻して神社に納めていたのでその像が現在も残っています。
 
山ふところにある小さな水穴、その上に小さな鳥居と祠があり、ひっそりとしてあまり目立ちませんが耳を澄ますと渓流の水音だけが聞こえる静かな場所です。

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タグ:諏訪の水穴

水漏舎小学校跡(日立市中成沢)


成沢鹿島神社を少し下ると池の川弁天公園はあります。

その一角に成沢教育発祥の地の史跡「水漏舎小学校跡」(日立市中成沢)があります。

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明治5年(1872)政府の学制の公布により明治6年7月、成沢村に水漏舎小学校が開設されました。
 
まもなく成沢小学校と改称され、戦後日立市の水道施設ができるまで存在しました。
 
施設撤収後はこの地を「近代教育発祥の地」として顕彰保存することになりました。
 
変わった名称の水漏舎の由来がそばの弁天池から漏れる漏水が流れる姿にあやかり学問に励むことを願ってつけられたそうです。
 
弁天池の小さな祠が木々の間からこぼれる陽の光りに反射してぼんやり見えます。

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この弁天池の漏れる水が学校の名の由来とはおもしろいですね。
 
弁天池のまわりは自然に囲まれ、とくにビワの木は樹齢約240年になる巨樹だといわれております。
 
ビワの木はたくさんあってビワの木公園のようです。暗緑色の葉が空を覆い隠すように鬱蒼としています。

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また、ツバキやイチョウの巨大な樹にもおどろかされました。

静かな森の緑の中でみんなの憩いの場所になっております。

☆ヒサコの一句☆

枇杷の蔭 弁天池の 水漏舎

天童山大雄院寺(日立市宮田町)


日立市宮田町に釈迦牟尼仏を本尊とする曹洞宗(禅宗)の寺、天童山大雄院寺があります。

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この寺の歴史は古く、現在の日立鉱業株式会社日立製錬所のある旧地名 宮田村字杉室というところにありました。
 
記録によりますと今から約530年前の頃、文明2年に南極寿星禅師によって開山されたといわれております。
 
ここには木造釈迦如来三尊像(県指定彫刻)が安置されております。

☆ヒサコの一句☆

春の雪 寺ふところに 釈迦三尊

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三尊ともヒノキ材木造りで中尊の釈迦如来像、脇侍普賢菩薩坐像、文珠菩薩坐像があります。
 
この三尊像は信州森村(長野県更埴市)の華厳寺に大雄院から贈られたものですが昭和35年返されました。
 
釈迦如来像と蓮華座の間から古文書が発見され「三尊仏寄進記。文明六甲午年四月八日為当寺本堂創建落慶入仏本尊
 
自杉室天童山大雄院本師南極寿星和尚遥遠賜贈有此由緒三尊仏者也。文明六甲午年四月吉祥日。華厳寺守塔信中永篤記」とあり大雄院におかれたものだそうです。
 
この三尊像は古文書からみて室町時代の作といわれています。
 
大雄院寺の南極寿星和尚様はたくさんの伝説の持ち主らしく、逸話も多い人といわれています。
 
雪雲が垂れ込め寒い寺は静かに時間だけが過ぎていく不思議な空間でした。

孫沢館跡(日立市国分町)


孫沢館跡(日立市国分町)は室町時代後半、孫沢権太夫頼茂という人の居城であったといわれています。
 
現在の桜川が海に注ぐところの断崖地(要害)を利用した城で広い本丸や、堅固なニ重の塀があったといわれます。
 
館主、孫沢権太夫頼茂については明らかではありませんが、大久保町鹿島神社の中に

「、、、権太夫頼繁合戦に及び利にあらず、落城す」

の一文があり、これが孫沢権太夫頼茂であるといわれております。
 
永禄5年(1562)相馬(福島県)の城主相馬盛胤の軍勢と佐竹義昭の軍勢が戦い(孫沢原の合戦)で孫沢館は陥落しましたが、その後、佐竹義宣の弟貞隆が岩城へ養子となり、大田に往来のときこの館で宿泊したので「岩城殿出張の城」といわれたそうです。
 
現在は日立製作所の「要害クラブ」となって利用されております。
 
太平洋の断崖にそって6号国道がはしり、交通の往来が激しくなり孫沢館跡は歴史のなかに埋没され忘れられていますが鬱蒼とした樹々が蒼黒く覆い、室町時代の激戦地は海からの冷たい風が容赦なく吹き、今にも雪が降りそうな気配です。

☆ヒサコの一句☆
 
要害地 孫沢原は 雪冷えに

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タグ:孫沢館跡

長福寺の境内に照山修理墓(日立市金沢町)


長福寺の境内に照山修理墓(日立市金沢町)があります。

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昔、大久保町、金沢町付近は昔から水田が少なく、米の取れない地方です。
 
「大久保、金沢の吊るし米」といって村人に病人がでると竹筒に米粒を入れ、枕元で振ってみせ早く病気が良くなるように「米の飯を炊いて食べさせるぞ」といったという、それほど米のない地方でありました。
 
この当時、佐竹氏が秋田に追われ水戸藩が成立した後、藩主の徳川頼房は藩の政治の確立をはかるため、寛永18年(1614)に領内の検地を行いました。
 
その検地がきわめて厳しいものであったので、農民は少しの余裕も与えられず大変苦しみました。
 
その頃、金沢村の庄屋であった照山修理は理不尽な検地をだまって見過ごすわけにいかず、一家をあげてこれを反対したため、藩の手によって捕縛され、弟の主税、子の新次と共に寛永18年、金沢村塙山において処刑され、刑死者に墓を立てることも出来ずにいました。
 
その後、水戸藩徳川光圀の代になって藩主自ら、その家に立ち寄って四脚門を立てること許し、武士の待遇を与えたといいます。
 
金沢葬祭場のそばにある静かなただ住まいの長福寺には大きな椎の木がありました。

☆ヒサコの一句☆
 
修理偲び 念仏供養 椎の寺

八幡神社(日立市会瀬町稲荷山)


日立市会瀬町稲荷山にある通称八幡さまと呼ばれている八幡太郎義家を祀る八幡神社があります。
 
また八幡神社と一緒に秋葉神社、稲荷神社が合ひされて小さな祠と社が残されています。

☆ヒサコの一句☆

稲荷山 八幡太郎の 冬の森

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私が小学校の頃、夏休みに家から1,5キロ以上もあった会瀬海岸に毎日のように海水浴にいき、その途中の高台にあった神社の鳥居をくぐり、急な階段を上がると鬱蒼とした樹々が暑さをさえぎり「ホッ」としたものでした。
 
昔、八幡太郎が奥州征伐の時、この地に立ち寄られ休息の折、飲み水に困ったので持っていた矢の先で地面を突き刺したところそこから清水が湧き出て兵士達の喉を潤したといわれています。
 
この言い伝えのある清水は今でも枯れることなく井戸水として使われているというから驚きです。
 
八幡太郎義家にまつわる伝説は11世紀の後期、前九年、後3年の両役に陸奥の安陪、清原の豪族に戦いを挑んだとき出征の往還となった道筋のいたるところに伝えられています。
 
関東北部の民衆にとって八幡太郎義家は超人化され、特に弓矢の神技を発揮した義家像は神格化され、各地で伝説としてたくさん伝えられています。
タグ:八幡神社

吉田正音楽記念館(日立市宮田町)


建国記念日、氷雨でもありそうな重く垂れもめた雪雲が公園の上空いっぱいに広がって、人の姿もまばらでした。
 
紅寒桜の花びらが細い枝にはりついて、冷たい北風に揺れていました。隣接している十王町が日立市となって植樹された日立紅寒桜です。

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神峰公園(かみねこうえん)(日立市宮田町)の中ほどに吉田正音楽記念館があります。

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吉田正さんは大正10年に日立に生まれ、日立育ちの戦後の歌謡界、音楽界を代表する作曲家です。
 
ソ連シベリアに抑留され苦しい戦争体験をされました。
 
昭和の年代、「異国の丘」「寒い朝」「再会」などよく口ずさみ、今でも愛唱歌の1つです。
 
また、次々とヒット曲を出し、一世を風靡し、毎日テレビやラジオ、レコードなどから聞こえたものです。
 
日立市に記念館が創設され、身近にメロディを聞いたり出来るようになりました。

詠み人知らず

歌はいつからか詠み人知らずになり、永遠の命を持つのではないでしょうか。
 
私の曲が1つでも詠み人知らずになり、それを聞く日を楽しみたい、、、

☆ヒサコの一句☆
 
寒桜 異国の丘は 遠い空

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大窪城城跡と暇修館の跡(日立市大久保町)


白梅が冬空に凛と咲いています。

まわりには竹林があり、ざわざわとした音だけの静かな自然の中にひっそりと大窪城城跡と暇修館の跡(日立市大久保町)があります。

☆ヒサコの一句☆

城跡の 白梅清き 余寒かな

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大窪城は治承元年(1177)大擾宗幹(だいじょうむねもと)が愛宕山に築き、その後、室町時代はじめごろ奥州の石川有光の14世詮光の3男茂光が、城を天神山に移築して初代大窪城が造られたいわれております。
 
その後、8代久光まで200年続きました。
 
久光は慶長7年(1602)佐竹義宣が秋田移封のとき、徳川氏に反旗をひるがえし、32歳の若さで処刑され大窪城は廃されたということです。
 
暇修館は天保10年(1839)大窪城の一部にあった常光寺境内に起工され初めは興芸館といわれ、医学を中心とした学問研究の場でしたが、5年後暇修館となりました。
 
神官、郷士、村役人の有志を中心に藩校に発展しました。

また文武の修錬の場となりましたが、幕末以降は衰退し明治になってからは小学校や村役場などに使われ、昭和35年に解体され昭和45年に最初の興芸館の姿に復元されました。
 
現在は新しい家などができてきましたが、まだまだ古い民家や塀などがおおく、狭い道を入るとむかしの面影の残る閑静なところです。

菜の花や 綺麗どころの 花畑


冬の陽が差し込む畑にはナノハナ(菜の花)が咲いていました。

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☆ヒサコの一句☆

菜の花や 綺麗どころの 花畑
 
寒気の厳しい真冬でもめげることなく、柔らかな葉の太い茎の先に黄色の四弁の花を咲かせています。
 
葉の色は淡黄緑色で縮みがあり、やわらかでさわやかな色です。

ナノハナといえば3月から4月にかけてあたり一面、黄色に染めあげ、
 
中国、フランス、イギリス、カナダの春は一面、黄色になるそうで、洋の東西を問わずハノハナは春の花なんですね。

ほんのりやさしい香りがして、目立っている花色のナノハナをみるとうれしくなります。

ナノハナはアブラナ科の二年草です。
 
山と海のある街は比較的暖かい気候に恵まれ、冬でもナノハナが楽しめます。
タグ:菜の花

蝋梅や 今朝の薄月 淡色に


立春がきても底冷えする2月の寒さは身にしみます。
 
冬の木は葉のないものが多く、鉛色の空に枝を広げ、寒々とした殺風景な灰色の景色は心まで凍りそうになります。
 
そんな中、ロウバイ(蝋梅)は艶っぽい黄色の花を寒そうにうつむき加減に咲いていました。

☆ヒサコの一句☆

蝋梅や 今朝の薄月 淡色に

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裸木に香りの高い花が珍しく、ふっと足を止めて見上げてしまいました。
 
ロウバイはウメの仲間ではなくロウバイ科の落葉低木です。
 
中国原産で江戸時代の初めに渡来したといわれています。
 
ロウバイは葉の出る前に下向き、または横向きに黄色で直径2センチぐらいの花を開き、内側の花弁は短く暗紫色
 
外側の花弁は細長く淡黄色です。
 
和名は花がロウ細工のように見えるので蝋梅といわれています。
 
変種には花がやや大きく中まで黄色いソシンロウバイ(素心蝋梅)があります。
 
たくさんの分枝に黄色の可憐な花はいつまでも香りとともに長く咲いてほしいですね。

鹿島神宮(日立市大久保町)


節分がきて寒さは厳しくとも、もうすぐ春の足音が聞こえそうです。
 
きょうは節分、鹿島神宮(日立市大久保町)へお参りにいきました。

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☆ヒサコの一句☆

節分の 鎮守の森は 静かなり
 
神社の鳥居をくぐり、階段を上ると荘厳な本殿が見え、鬱蒼とした古木があたりに霊気をただよわせ、一層静かに感じました。
 
神社境内には有名なイチョウが境内の南側にあり、根株は根が露出し幹の中心は相当腐朽して、今は裸木となっています。

そのほか境内にはカヤ、モミ、エノキ、ケヤキ、スギ、シイなどの樹木で鎮守の森が守られております。
 
節分なので福豆をいただきました。
 
神社のそばには真冬には珍しく真っ赤な実を枝にいっぱいつけたピラカンサの実をみつけました。

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初夏には白い小さな花をつけ、秋冬には美しい実をつけます。
 
静かな神社の森、近くで赤い実に出合うなんてどこか心和むものですね。
 

伊師浜海岸の海鵜(日立市十王町)


日立市十王町の伊師浜海岸は1300年の歴史を誇る「鵜飼」が行われています。

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☆ヒサコの一句☆

伊師浜は 冬に鵜の啼く 岩しぶき
 
伊師浜海岸は海蝕崖がつづき黒松の老樹がみられ、ウミウ(海鵜)の渡来休息に絶好の場所になっております。
 
海は魚貝類や海草が多いので鵜の採餌場として最適の環境といえます。
 
鵜はペリカン目ウ科の総称で、この仲間は潜水遊泳がたくみな水鳥です。

日本では(ウミウ、カワウ、ヒメウ、チシマウガラス)の4種が生息しています。
 
ウミウは敏捷な渡り鳥です。

くちばしは円筒形、内側は鋭さをもち、あごは長く、足には水かきがあり、羽は黒色で紫緑青色の光沢があります。
 
現在は長良川の鵜飼が特に有名で、日立の海岸で捕獲された鵜が大事に使用されています。
 
ウミウは繁殖のため3月から5月にかけて千島列島や北海道海岸に向かい、越冬のため10月中旬にはこの海岸に飛来します。
 
ここ伊師浜国民休養地内にはおとり用のウミウを飼育しております。
 
捕獲技術は平成4年に無形民俗文化財として指定されています。
 
四季を通じて美しい海岸ときれいな砂浜が魅力で散策するのが楽しみなところでもあります。
タグ:伊師浜海岸
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